青年団公演『ソウル市民』5部作連続上演

日本の植民地下で、庶民たちはどう生きてきたか


安住邦男

 
 


 青年団が、平田オリザの作・演出で『ソウル市民』5部作を一挙に連続上演している。
 第1部の『ソウル市民』は、1989年初演。第1部から第4部まではソウルで文房具店を営んで成功した日本人の篠崎家が舞台。しかし、平田オリザの唱える現代口語演劇≠ナ淡々と日常の生活が語られているだけで、特別に劇的な事件≠ェ起こるわけではない。しかし時代は1909年である。この翌年、日本は韓国を併合した。
 第2部の『ソウル市民1919』は2000年に初演。1919年は、朝鮮で三・一独立運動が起こった年である。
 続く第3部『ソウル市民 昭和望郷編』は2006年初演。時代は1929年、世界恐慌の起こった年であるが、その2年後には関東軍が柳条湖において満鉄を爆破、満州事変≠ェ始まっている。
 そして今回初演の第4部、『ソウル市民1939・恋愛二重奏』では、3年前にヒットラーユーゲントが来日しており、それがこの年、植民地・朝鮮にもやってきたというのだが――。
 篠崎文房具店は、別に朝鮮を侵略しようとしたわけではない。使っている朝鮮人の女中や書生に対しても、格別差別意識があるわけではない。たんなる善意≠フ、平凡な市民なのだ。
 しかし、商品の鉛筆やノートを慰問袋に入れて、せっせと売りまくる一家に、まったく罪はなかったのか?
 今回は第5部として、『サンパウロ市民』が合わせて上演される。地球の裏側であるブラジルのサンパウロで、同じく日本人植民者寺崎文房具店を舞台にストーリーは展開する。彼らにも罪の意識はこれっぽっちもない。ただしこちらでは、ブラジルの先住民を土人′トばわりしてはばからないのだが……。
(10月29日〜12月4日 吉祥寺シアターにて交互上演。詳細は劇団=3469‐9107へ)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年11月25日号)

 

 

 
 

雪と氷を楽しめない冬季施設

大野 晃

 
 


 北海道や東北から初雪の便りが届いて、一気に冬到来となった。冬季スポーツの本格的なシーズンインである。
 しかし東日本大震災の影響で、東日本各地のスキー場などは厳しい条件下にあるようだ。
 スキー人口の急激な減少に加え、福島第一原発の放射能汚染問題などで東北地方が敬遠されがちだという。生き残りの崖っぷちに立っている。
 華やかなテレビショー化したフィギュアスケートを除けば、マスメディアの冬季スポーツへの関心は薄まるばかりで、2度の冬季オリンピックを開催した遺産は風前の灯となっている。
 徹底した商業主義化により、大衆スポーツとしては縁遠くなったあげくに、採算が取れないとスキー場施設が打ち捨てられているケースもあると観光企業の横暴を嘆く地域住民が少なくない。
 日本の冬季スポーツ環境には、スポーツを利用した開発優先の結末を示す無残な実例が典型的に現れている。
 しかしその苦境は地方問題として片づけられ、全国紙などの中央メディアが注目することは皆無に近くなった。
 中高年登山や山ガールのブームなど、国民の中には自然環境と一体化したスポーツへの欲求が高まっているが、行政による環境整備に反映されてはいない。
 スキー場だけでなく、屋外スケートリンクや屋内リンクも減少傾向を強めている。
 リゾート法でスキー場開発などを先導した国だが、冬季スポーツの退潮には抜本的な対策を示さない。地方行政の課題と突き放すばかりだ。企業支援は後退を続ける。
 本格的に競技に取り組んだ経験を持つ人は地域的に限られているから多くはないだろうが、スキーやスケート遊びの楽しい思い出が心に残る国民が圧倒的なはずだ。
 雪合戦や雪遊びで時間を忘れた子供のころの故郷の原風景。四季のある日本で、雪と氷に親しむ機会を失う不幸を招いてはなるまい。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年11月25日号)

 

 

 
 

草の根の自主的復興進む

大野 晃

 
 


 3・11大震災から2カ月がすぎ、ようやく被災地に復興の機運が高まっているが、草の根の住民スポーツも復活してきているようだ。
 新日本スポーツ連盟によると、被災県で公共スポーツ施設の被災や避難生活転用が多い中でも、工夫しながら自主的なクラブ活動を再開しているところが少なくないという。クラブ員たちが力を合わせ、できることから取り組み始めている。
 マスメディアは、トップ競技者の被災地支援の動きやトップチームなどの再開に関しては積極的に報道しているが、住民スポーツには関心を示さない。しかし草の根の動きを追わなくては地域スポーツ復興の道筋が見えてこない。ファンとしてトップ競技者を支えるとともに、スポーツを楽しむことで生活再建の弾みに、という要求は強く、住民の参加は静かだが確実に進んでいる。
 岩手県では、県知事が復興に集中するために5年後の国体開催を見送る考えを示すと、競技関係者や被災地首長から「開催を復興の目標に」との反対意見が出た。地元紙の岩手日報も、選手強化費や施設建設を縮小してでも競技関係者の手で開催しようと訴え、議論になっている。山口県は10月開催の地元国体を「大震災復興祈念」の大会とすることを呼びかけた。戦後いち早く競技関係者の手で開催された国体の原点帰りが特徴である。
 大震災後、トップ競技者の多くから「競技できる喜び」や「ファンとの絆」が語られた。
 スポーツ愛好者の多くは、改めてスポーツの意義をかみしめ、厳しい条件下でも、自主的に動き出した。「勝ち負けより、競技することがうれしい」と本音で語る人々が増えている。
 その全体をマスメディアは、しっかりとらえ直す必要がある。
 スポーツの政治的・経済的利用があからさまに追求される異様な日本スポーツを取り巻く社会状況が、明らかに変わりつつある中で、本格的な復興は進むだろう。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年5月25日号より)

 

 

 
 

青年劇場『青ひげ先生の聴診器』

さまざまな医療問題を軽妙なタッチで描く


安住邦男

 
 


 毎回社会性のあるテーマの演劇を、軽妙なタッチで青年劇場に書き下ろして評判の高い高橋正圀氏が、今度は医療問題にメスを入れた。演出は松波喬介。
 「先生のひげはどうして青いのかね?」と、何度も何度も聞く年老いた患者の千代(小竹伊津子)に、榊原院長(葛西和雄)は「別にひげが青いのではないよ。ひげが濃いのでその剃り跡が青く見えるだけさ」と繰り返し答える。認知症が進みつつある彼女は、要求があるとすぐにベッドをスプーンでたたいて騒ぐので周囲の患者から文句が出て、ベッドごと院長室に運び込まれている。
 ここは地方にある小さな病院の院長室。一人でも多くの患者を入院させたいと、院長の青ひげ先生は病院の中で最も狭い部屋を院長室にしている。
 その院長は大の芝居好き。今も終業後の院長室では、春の市民祭りに上演しようと、『水戸黄門』の稽古に余念がない。だがぎりぎりのシフトを組むなか、出演者の職員はなかなかそろわない。
 この病院の特徴の一つに、「病院探検隊」と称する市民ボランティアの団体がある。病院内を随時「探検」して回り、病院内に無駄がないかどうかをチェックするのが仕事である。
 そんな折も折、院長の後輩で東京の大学病院に勤めていた外科医の風間(杉本光弘)が悄然と訪ねてくる。「神の手」と呼ばれるほど心臓手術に優れた技量をもつ風間であったが、術後に急死した患者の家族から「医療ミス」を訴えられ、失意のうちに先輩の青ひげを訪ねてきたのだった。
 一方、青ひげ院長の息子の太郎(矢野貴大)もこの病院で研修医をしている。自分の将来像を、都会の大学病院で最先端の医療を目指すか、先輩から誘われている僻地の医療に取り組むかで迷い、悩んで揺れている……。
(3月4〜10、13日 紀伊國屋サザンシアターにて上演。11〜12日は震災で休演)
<写真>宮内 勝

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年4月25日号より)

 

 

 
 

競技者の震災救援のうねり

大野 晃

 
 


 3・11大地震は日本スポーツにも大きな試練をもたらした。地震発生直後には全ての競技会が中止され、3月の競技会のほとんども中止、延期された。国民生活の復興と足並みをそろえて、どう発展させるか厳しい課題が突きつけられた。
 プロ野球・楽天やJリーグのベガルタ仙台、鹿島アントラーズなどは本拠地が被災して競技会開催が危ぶまれ、東京・国立競技場も被災した。人気のプロ競技は大幅な開催変更に迫られている。多くの競技の高校選抜大会も中止が相次いだ。
 春本番へ向けて鍛錬してきた競技者たちは出鼻をくじかれた格好だが、むしろ被災地の救援に動き始めている。
 米大リーグや海外サッカーで活躍する競技者たちは、海外からの支援を呼びかけて募金活動を強めた。大惨事は、トップ競技者にとって無関心ではいられないようだ。救援募金にとどまらず、どうしたら被災者を励ますことができるか真剣に考える姿が伝わる。
 競技で奮闘して励まそうという決意は共通している。それだけではない。プロ野球選手会は「厳しい日程になってもいい」と、安全な試合を求めて開幕延期を申し入れ、興行利益を優先する球団側と対立した。不利益を覚悟して、競技者たちはファンとの連帯を模索している。競技者と国民ファンが一体化して復興の道を歩む機運が生まれている。日本スポーツの大きな前進である。
 しかし「スポーツ基本法」制定を課題とする文科省は沈黙したままだ。
 「スポーツどころではない」が被災地の実情だろう。被害を受けなかった人々も「こんな時に競技を楽しんでなんかいられない」との心情にあるのは想像に難くない。
 しかし思い起こして欲しい。16年前の阪神大震災で、絶望的になる被災者の心を開いたのが仲間と楽しんだスポーツだった。思い切り体を動かすだけでも勇気がわいたと感じた人が少なくなかった。苦難の中でスポーツの力は生きる。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年3月25日号より)

 

 

 
 

文学座公演
『美しきものの伝説』

大正時代はベルエポックだったのか?


安住邦男

 
 


 1968年、宮本研が文学座のために書き下ろして初演された作品の、文学座による再演である。初演時の演出は木村光一、今回は西川信廣。役者は、あえて初演時に出演した現在の中堅どころを用いず、当時とほぼ同じ世代の若手を全面的に起用、これが成功した。登場する辻潤(神野崇)にしろ、神近市子(鈴木亜希子)にしろ、小山内薫(星智也)にしろ、みんな若かった。少々歳をくっているとすれば、島村抱月(得丸伸二)と堺利彦(松角洋平)ぐらいである。作者はこれを「革命伝説四部作」の一つとして分類しているが、同時にこれは青春群像劇でもある。
 時は大正時代(1912〜)。堺利彦が身過ぎ世過ぎのために起こした売文社に、伊藤野枝(荘田由紀)が青鞜社の平塚らいてう(松岡依都美)を訪ねてくるところから舞台は始まる。
 前々年の10年、「大逆事件」によって、幸徳秋水ら社会主義者、無政府主義者らが天皇暗殺の容疑で逮捕され、翌年には12名が死刑を執行された。荒畑寒村(石橋徹郎)や大杉栄(城全能成)が逮捕をまぬかれたのは、たまたま08年の「赤旗事件」で二人とも収監されていたからである。世はまさに、石川啄木のいう「時代閉塞」状況であった。
 並行して描かれるのは、島村抱月(得丸伸二)が松井須磨子(舞台には登場しない)を擁して起こした「芸術座」である。商業性と芸術性を統合する「二元の道」をスローガンに提唱するが、これはのちに若き久保栄(佐川和正)によって「砂上の楼閣」と批判される。
 18年、抱月はスペイン風邪で死去、2カ月後には松井須磨子も後を追って縊死。芸術座はここに崩壊する。
 23年、関東大震災の混乱に乗じて、大杉栄・伊藤野枝夫妻は甘粕憲兵大尉の手によって虐殺された……。
(2月13〜22日 紀伊國屋サザンシアターにて上演/写真=飯田研紀)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年2月25日号より)

 

 

 
 

世界を動かす三つの変化

大野 晃

 
 


 新年早々にスポーツイベントが目白押しで、日本の正月風景として定着してきた。新鮮な喜びと期待を抱かせる競技者たちをマスメディアはこぞって賛美する。しかし時代の変化を見ない陳腐な表現やスター作りばかりに勢い込む、ひとりよがりの扇動も目立つ。
 視聴者や読者が、競技や競技者の実像から何かをつかもうとスポーツに関心を示しても、賛美の押しつけに、マスメディア不信を増幅させるかもしれない。騒ぎ立てなくとも、素晴らしい競技は自然とファンの心を揺り動かすものなのだ。
 重要なことは、新しい時代に、新しい道に踏み出そうとしている競技者たちを広い視野でとらえ、ファンとともに未来を考えていくことだ。
 そこで、トップ競技をめぐる世界スポーツの新しい潮流を考えると三つの点で大きな変化が見られるように思われる。
 第一は世界的な競技会の開催が米国や欧州中心から世界の新しい地域に拡大する多極化の動きである。第二はステートプロの時代を迎えたこと。ソ連などかつての東欧圏で主流だった国家丸抱えのステートアマとは異なり、プロ競技者が国家あるいは競技団体と契約して、国家あるいは地域代表として競い合うことが主流となりそうだ。第三は冠大会方式の大型競技会開催が衰退に向かうこと。テレビが仲介し、企業スポンサーが競技会を財政的に支え、企業はスポーツの商業主義的利益を得るCM競技会が主流でなくなるのではないか。
 競技団体の思惑と競技者とのあつれきの底流にこうした変化があり、将来のトップ競技のあり方を根本的に問い直す必要がありそうだ。
 人類に不可欠なものとしてスポーツの生活化がはかられ、その中から生まれるトップ競技者の成果が人類の共有財産として受容される社会が世界に広がろうとしている。経済先進国にとどまらず、むしろ途上国の方が加速度的なようだ。日本では初夢のように思われるところに不幸がある。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年1月25日号より)

 

 

 
 

文化座公演
『銀の滴 降る降るまわりに――首里1945』

日本最南端の沖縄で、戦死したアイヌ人兵士

安住邦男

 
 


 タイトルは、知里幸恵(知里真志保の姉)編の『アイヌ神謡集』の中にある「梟の神の自ら歌った謡」の一節から取られたものという。
 しかし、アイヌと首里がどこで結びつくのか。――それを解く鍵は、沖縄・糸満市の真栄平区に建てられた「南北の塔」にある。この塔は、過ぐる沖縄戦において、アイヌ出身の日本軍兵士が沖縄で戦死したことを悼んで、アイヌ民族と沖縄住民との協力によって、66年に建立された。
 では、なぜ日本最北端の住民であるアイヌ人が、最南端の沖縄で戦死したのか――。
 アイヌ出身の兵士・冨田栄吉(梅田崇)は満州に派遣されていたが、44年7月の米軍のサイパン占領により、連隊ごと沖縄へ移動となる。所属は炊事班で、首里近郷の運玉森に軍が借り上げた与那城夫妻(佐々木愛・阿部勉)の家が炊事班の炊き出し所となるが、そこに現地で召集された沖縄出身の中里幸吉(春稀貴裕)がやってくる。ことあるごとに反抗的な態度を取る中里は、何事に付け従順な冨田がまどろっこしく、時には激しい喧嘩にまでなる。
 そんな2人の確執をよそに、44年10月10日、米軍は沖縄に大空襲を仕掛け、那覇市街地の9割が焦土と化した。日本軍はこの日大掛かりな図上演習を予定しており、前日は各地の司令官が那覇の料亭で酒宴を張っていて、ほとんど有効な対応が出来なかった。
 45年3月26日、米軍はついに慶良間諸島へ上陸、以後の展開はご存知のとおりである。しかし舞台は炊事班の内部に限定されているため、米軍の砲弾の音こそすれ、兵隊は鉄砲を持っていないので、血なまぐさい場面は一切ない。そこには、アイヌ人、沖縄人、内地人の、さまざまな人間模様が巧みに活写されていて、魅力あふれる舞台となっている。(12月10〜23日 東京芸術劇場小ホール2にて上演/写真=坂本正郁)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2011年1月25日号より)

 

 

 
 

集まったヨ! 東京の「9条の会」

 
 


 2010年11月13日、「東京・9条まつり」に3千人が集まった。なにを見ようか、なにを聴こうか、なにを買って帰ろうか……。講演、映像、音楽、写真、展示などさまざまな角度から、憲法9条の大切さがつたえられた。80のブースでも人が途切れることなく、「1日ではもったいない」という感想をのこして……。JCJ会員の活躍が、ひかっていた。(構成=畑泰彦、川田マリ子)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年12月25日号より)

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俳優座LABO公演 『山 火』

朝鮮戦争下でたくましく生きる庶民の女たち

安住邦男

 
 


 劇団俳優座が、本公演のほかに稽古場を使って上演するLABO公演を始めて、今年は20周年になるという。その記念公演第3弾として、初めて韓国の現代劇を取り上げた。といっても新作ではなく、韓国リアリズム演劇の代表的な作家・車凡錫による62年の作品である。演出は亀井光子。
 時代は、すでに朝鮮戦争も南北の力が38度線付近で拮抗し、休戦会談が行われていた51年。南部の小白山脈にある智異山に隠れ潜んでいる北のゲリラに食料を調達される麓の部落では、すでに男たちは戦争に駆り出されて誰もおらず、残っているのは女たちばかり。それもほとんどが未亡人で、あたかも「女護島」。あとは老人・子供ばかりである。
 そこへ一人の負傷した男・ギュボク(三浦英明)が逃げ込んでくる。たまたま遭遇した寡婦のチョムレ(浅川陽子)は、自ら手当てを施し、裏の竹藪にかくまって食事を与える。
 そのうち二人の仲は親密になるのだが、あるとき二人で居るころを、隣家の未亡人サウォル(安藤みどり)に見つけられてしまう。しかし、問い詰めるサウォルの出した条件は意外であった。「あんた一人で男を独占することはないだろ。これからは私と一日交替で面倒をみさせろ」。
 奇妙な三角関係が始まる。しかし、もともと子供が出来なかったチョムレだからよかったものの、サウォルはたちまち妊娠してしまう。当然村中に知れ渡り、噂は韓国軍に知られるところとなる。「なんで男のいない村で女が妊娠するのか?」
  だが、やがて男は見つかり、殺されてしまう……。
 亀井演出はテンポよく、舞台は軽やかに進行する。しかし、朝鮮戦争は膠着状態のまま休戦。いまだに南北間で和戦協定は結ばれておらず、唯一の分断された国家として世界で最も緊張をはらんだ地域となっている。
(10月17〜24日 俳優座稽古場にて上演)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年11月25日号より)

 

 

 
 

国民スポーツの将来描く努力を

大野 晃

 
 


 1961年にスポーツ振興法が施行され、行政などによる本格的な国民スポーツ振興がスタートして、来年半世紀を迎える。64年の東京五輪開催に向け、スポーツ先進国を目指して国民に広くスポーツを普及、発展させるための法律は、予算処置が明確でない弱点を持っていたとはいえ、日本スポーツの基盤づくりを促すものだった。
 文科省は「スポーツ立国戦略」で同法の見直しと新しい政策の拠り所となる「スポーツ基本法」を検討すると明言し、民主党や自民党も基本法提案に動き出している。半世紀を経て、振興法が時代に合わなくなったというのが理由のようだ。
 しかし何が古くなったのか、振興法に基づく行政などをどう総括するのかは不透明で、五輪メダル獲得の飛躍を狙う国策的な選手強化ばかりが先行する偏った議論がまかり通っている。
 振興法が第一義的課題とした国や地方公共団体による国民スポーツの条件整備は、施設整備一つをとっても縮減が顕著で、
50年たっても課題達成とは言い難い。体育の日の行事や国民体育大会は形骸化するばかりで、職場スポーツは雲散霧消したようだ。企業が社員の福利厚生のために保有する施設は80年からの28年間に4分の1以下に激減した。企業スポーツの後退はトップ競技支援以上に、社員の援助に著しい減退を示した。働く者のスポーツは自己責任で、が徹底している。
 代わって地域でのクラブ活動が大きく発展したのかといえば、クラブの拡大は遅々として進まない。バブル経済期にあだ花のようにフィットネスクラブなどが急成長したにすぎない。それも今や減少傾向を強めている。
 こうした動向にマスメディアが関心を示し、注目して検討することは皆無に近くなった。70年代に盛んだった「みんなのスポーツ」促進姿勢は消滅したようだ。国民スポーツの将来を描かないスポーツメディア。国民のメディア離れが進む一因に違いない。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年10月25日号より)

 

 

 
 

吉祥寺で市民メディア全国交流集会

市民が伝える市民の視点

 JCJ新聞部会も分科会を開催

 
 


 「一人ひとりが、ジャーナリスト。」 リニューアルしたJCJのパンフレットに書かれたキャッチコピーだ。JCJはマスメディアに関わりが深いが、地域で活動している市民のメディアとの関係も重視し、マスメディアと市民メディアとの交流を問題意識として、毎年行われる市民メディア交流会に参加している。
 今年の第8回市民メディア全国交流集会は「武蔵野・三鷹メディフェス2010」として9月4日、5日に武蔵野市の成蹊大学で開かれた。
 JCJ新聞部会は4日に、「地方からの視点をどう伝えるか」という分科会を開いた。(2面参照)
 メディフェスを主催したのはNPO法人武蔵野・三鷹市民テレビ局(MMTV)。一般の市民が地域に取材したテレビ番組を制作しているテレビ局だ。
 4日午前のシンポジウムには清原慶子三鷹市長、邑上守正武蔵野市長、福田治樹JCOM武蔵野三鷹社長、西海真理MMTV代表が地域に市民テレビ局がある意味について話し合った。
 清原市長は市民が情報発信することで地域の課題が見えてくるとし、邑上市長は、地域情報を伝えるには、行政では限界があるとした。
 福田社長は地域情報を伝える自主チャンネルにケーブルTVの存在意義があるとし、西海代表は8年間のMMTVの活動を報告した。
 午後は分科会。並行して上映会や学生主催の分科会も開かれた。
 昨年のJCJ賞黒田清新人賞受賞でMMTVの局員でもある早川由美子氏の「ブライアンと仲間たち―パーラメントスクエアSW1」が上映された。
 和田昌樹桜美林大学準教授の「電子出版と市民メディア」、横浜経済新聞編集長の杉浦裕樹氏の「市民メディアと地域SNS」など興味深い分科会が並ぶ。
 和田氏によると単純な紙面の書籍は、専用のソフトを使って簡単に作れるという。
 1日目の夕刻からはキャンパス内で懇親会が開かれた。
 5日には「市民メディアの過去・現在・未来」、「多摩の防災、コミュニティFM4局の担うもの」の2つのシンポジウムに続いて全体会が開かれた。全体会では下村健一氏がコーディネーターとして、各分科会の報告を集約した。5日の全体会の前に、市民メディア全国交流協議会が開かれ、来年のメディフェスを仙台で、再来年には上越市で開催することが決まり、全体会で発表された。 (機関紙部)

【市民メディア全国交流集会】04年「市民メディアサミット」として、各地の地域FM、市民放送局、ポータルサイトなどが集まり、名古屋で開催された。第2回は米子(鳥取)、第3回は05年に山江村(熊本)で開催、第4回=横浜(06年)、第5回=北海道(07年)、第6回=京都(08年)で開かれ、「メディフェス」と呼ぶようになる。09年に東京で開かれた第7回でJCJ新聞部会が分科会を開催した。

◇地方紙の可能性を実感

 9月4日、東京の成蹊大学で開かれた武蔵野・三鷹メディフェス2010(市民メディア全国交流集会)で日本ジャーナリスト会議(JCJ)新聞部会は「地方からの視点をどう伝えるか」のテーマで分科会を開催した。
 初めに昭和女子大学人間社会学部教員の清水真氏が「なぜ今、地方新聞に注目するのか」と題して基調報告をした。
 清水氏は、地方紙は例えば保育所の待機児童問題など、住民の必要に即した良い記事をたくさん書いているのに、1県1紙の制約から、大都市圏の人はもちろん隣県の人々もほとんど読む機会がないという問題点を指摘。これはいわば「民意の分断」であり、固まった状況を突破する必要があると強調した。
 そのために北海道新聞の高田昌幸記者と共同で地方紙の優れた記事を集めた単行本『日本の現場』(労働旬報社)を出版したことを披露。ある地域で起きている社会問題はその場にとどまらず、全国各地の問題につながる。地方紙の記事を読み比べることで、読者はより一層、問題への対処法の理解が進むし、全国紙など新聞全体の紙面への厳しい視線の養成にも結びつくと語った。
 また沖縄タイムスと熊本日日新聞とが実施した記事交換などは、閉ざされた県紙に風穴をあけるものとして評価。若い記者にも良い効果が生まれるとした。
 続いて沖縄タイムス東京支社長の田口雅士氏が、沖縄タイムスと神奈川新聞、長崎新聞が今年、共同で取り組んだ企画「安保改定50年」について報告した。企画は70回を超える連載となり、沖縄の読者からは「基地問題は沖縄だけではなかった」との声が寄せられたことを紹介した。
 しかし、基地問題以外のテーマで今後、共同企画が広がるかについては不明な部分も多いことを示唆。「沖縄の基地は沖縄に置いておけ」という見方が日本全体にある状況に田口氏は「もう、いいや」という悲観論があることも吐露した。
 最後に主に地方各紙東京支社の広告・営業部門の社員でつくっている交流会「ローカル・ビズカフェ」の活動報告があった。報告したのは畠山茂陽氏(河北新報メディア事業部)と山本拓海氏(北海道新聞東京支社営業部)。大学の教室でセミナーを企画し、地方の産業情報や新聞記者のリポートなどを学生も交えて聞き、地方への関心を高める活動をしている様子を紹介した。1人1万円を出して一緒に本を書き上げる「つたえびと」企画への参加も訴えていた。(S)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年9月25日号より)

 

 

 
 

儲からない五輪は無視する? 

大野 晃

 
 


 シンガポールで第1回夏季ユース五輪が開かれた。若者のスポーツ離れを食い止めようと国際オリンピック委員会のロゲ会長がリードした。五輪の原点に立ち返る若者の祭典である。
 205カ国・地域の14歳から18歳までの男女計約3500人の競技者が集い、工夫をこらした26競技を競うとともに、選手村で交流の輪を広げ、五輪メダリストの話を聞いて互いに学び合い、スポーツの意義を考えた。将来の五輪代表としての前哨戦といった意味あいはないから、国別メダル争いとは無縁で、競技者たちは世界の平和と友好を誓い、夢を育んだ。
 次回は14年に中国の南京で開催され、12年には第1回冬季大会が、冬季五輪を2度も開催したオーストリアのインスブルックで開かれる。
 勝利至上主義で猛練習を続けてきた日本人競技者にはとまどいもあったらしいが、新鮮な体験に目が輝いたという。競争相手も同様で、貴重な時間を過ごしたようだ。
 商業主義や国の威信に振り回される世界の若き競技者に、スポーツを通しての友情の大切さを教えたのは間違いない。
 五輪には何かと大騒ぎする日本の商業マスメディアは、世界の変化や若い五輪像をどう伝えたか。五輪報道の根本姿勢が問われる試薬になった。
 結果は、総合的な報道に努力したのは毎日新聞くらいだった。ほとんどが、日本人競技者の成績を伝える程度で、放映権を持たないテレビは報道を放棄。菅政権も文科省も無視していたからか、NHKもほぼ沈黙を決め込んだ。建て前として五輪精神を強調するが、内実は金儲けにつながらない競技には目もくれず、メダル絶対主義で「がんばれニッポン」しか頭にない日本マスメディアの低劣さを裏書きした。
 スポーツジャーナリズムには、時代の先見性と国際性を堅持することが不可欠だ。それを忘れ、猛暑の高校野球に躍って騒いだスポーツメディアは、若き競技者への熱い思いも未来も見失った。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年8月25日号より)

 

 

 
 

生命存続の危機とメディアの責任

吉原 功(JCJ代表委員)

 
 


 多数の要因が複雑に絡み合っていて、これが病根だとにわかには判明しがたい停滞感、不安感が日本社会に充満している。NHKをも包み込んだテレビ番組の馬鹿騒ぎも、人々の苛立ちの逆説的な反映であるだろう。

 そのような中、小惑星探査機「はやぶさ」が60億の航跡を描いて7年ぶりに帰還した。W杯での日本チーム海外初勝利とともに、久しぶりの明るいニュースであった。03年5月、鹿児島・内之浦から打ち上げられた「はやぶさ」は、46億年前地球などとともに誕生した小惑星「イトカワ」に到着したが、石などの採掘中にトラブルが発生、宇宙空間のなかに行方不明になった。7週間後に奇跡的に発見された(05年12月)後も、故障やトラブルが重なり帰還は何回も絶望視された。

それらを克服しての帰還である。幾多の困難を乗り越える人生と重ねてこの帰還を喜ぶ人が多くいるという。回収されたカプセルに石や砂などが入っていて、それが太陽系宇宙の解明に役立つとすればすばらしいことだ。

 科学技術の発展はめざましく、それが現代社会を作り上げていることはいうまでもない。しかしその発展がバランスを欠いたものであることも明らかだ。最近の例ではメキシコ湾における石油採掘事故がある。1500bの海底から石油を採掘する技術は驚嘆に値する。だが事故がおこり1カ月以上たっても修復のめどが立っていない。

自然や人間社会にどれだけの被害をもたらすのかも計り知れない。安全に対する研究開発がなおざりにされていたことの帰結である。これは科学技術開発全般にいえることであろう。これが自然の循環を阻害し、人間のみならず地球上の生命の存続すら危険に晒すことになった。停滞感、不安感の根底には、この問題が横たわっているのはほぼ確実であろう。

 科学技術をどの方向に発展させるか、どのように利用するかは、政治、経済、社会
のあり様に関っている。その意味でメディアの責任も重大だ。市場万能主義やそれと連動する軍事優先思考では方向転換できないことは明らかだが、メディア自体がそうした流れに呑み込まれてはいないか。環境問題や普天間問題で「理想」を掲げた鳩山政権を引きずり下ろすことに貢献し菅新政権の「現実主義」を歓迎しているメディアには、ニュース価値の判断基準を再検討し、現代社会の核心をつく情報を収集し提供する機関としての覚醒が求められている。

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年6月25日号より)

 

 

 
 

熱い心で語られた「平和憲法の価値」

「無防備地区宣言」を提案 井上ひさしさんを悼む

山崎晶春(出版部会)

 
 


 この4月9日、1972年に日米両政府が沖縄返還の際に交わした「密約文書」開示訴訟で、東京地裁は密約の存在を認め、開示を命ずる判決を言い渡した。原告の完全勝訴だった。
 この勝訴を契機に、日米安保を根本から問い直す論議が深められ、運動にどう反映されるか、希望を持たせた。
 この夜、井上ひさしさんが亡くなった。
 前日、所沢で澤地久枝さんの講演を聞き、4年前に同じ会場で行なった井上ひさしさんの講演を想い起こしていた。
  ◇
 JCJで井上ひさしさんに初めて講演をお願いしたのは、昭和天皇が死去し、平成に変わった8・15集会だった。
 この時の井上さんは病み上がりの状態だったが、敗戦から44年経たこの機会に、新憲法に位置づけられた「三原則」を再確認する重要性を考えておられた。
「大戦が生んだ平和憲法」と題した講演だった。
 昭和の最後の秋は、昭和天皇の下血の報道で持ちきりだった。マスコミは天皇の戦争責任には触れずじまいだった。米国による沖縄の長期軍事占領をマッカーサーに希望したという「天皇メッセージ」も明らかにされなかった。
 敗戦直後、GHQ占領下の混乱期に起きた世の中の実相を巧みに織り込みながら、人間、社会の姿を語られ、新憲法の話に入っていった。
 憲法を改正することを最初に言い出したのはマッカーサーで、手続き上は明治憲法の改正という形をとった。「国民主権」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」が新憲法をつらぬく原理だった。井上さんは敗戦の年に世界をおおっていた人類共通の願い、世界の人間の歩みの結晶が「戦争放棄」として受け止められたのは素晴らしいことだと言われ、時代が更に進んだ時、この憲法は世界的に大きな意味をもってくるでしょうと講演の結びとした。
 自民党政府は皇室問題に事よせて、「逆コース」へ向かわせようとしていた。
 21世紀になるとイラク戦争、アフガニスタン戦争と続き、01年からの6年間の小泉時代に、テロ特措法による自衛隊の参戦、05年の「日米同盟―未来のための変革と再編」は自衛隊を大きく変貌させた。
 07年11月に所沢「九条の会」連絡会で、井上さんは「日本国憲法が創り出した価値」というテーマで話された。
 冒頭に井上さんは、「『憲法を守れ、平和を守れ』といっているうちに既成事実が積み上げられ、どん詰まりまで後退させられてしまった。自衛隊は大きく変貌しました。自衛隊は軍隊です。今日はこの現状を変えるために考えてきた具体的な提案をします」と言い、「国際条約集」を示されて熱心に話された。
 日本国憲法を水先案内として非軍事化を定めた南極条約、バンコック条約で結ばれている非核兵器地帯の東南アジアの国々のことやアフリカ条約など詳細に説明され、これらの国々の人たちが日本国憲法に盛られた精神を、特に前文を参考して苦労しながら達成させている様子を話された後、無防備地区宣言の運動を提案された。
 「所沢は必ずできます。私は鎌倉でやります。今度お会いした時は進み具合を話し合いましょう」――こうした約束で講演は終わった。さまざまな英知が投げ込まれ、考えさせられ、勇気をもらった集会だった。井上さんはいつもそうであるが、相手をあたたかい笑顔で包み込んで話される人だった。

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年5月25日号より)

 

 

 
 

崩壊するテレビ制作現場 ジャーナリストのユニオンと教育を

小滝一志(放送を語る会)

 
 


 3月27日、「放送フォーラム 危機にあるテレビ制作現場」(放送を語る会主催)が開催された。ブックレット「NHK番組改変事件」出版記念を兼ねた集会で、冒頭アジアプレス・インターナショナル代表野中章弘氏がNHKのETV特集制作経験などを基に強い危機感を込めて「いまテレビ制作現場で起こっていること」を基調報告した。
 特に参加者を驚かせたのは処遇の面での格差。野中氏の調査では、キー局社員(40歳前後)が年収1500万円前後に対し、制作会社社員(26歳)340万、契約社員300万。一方、生涯賃金で見るとキー局社員は6億2200万〜5億5500万円。これに対し、日本の男性の正社員の生涯賃金は2億3500万、非正規社員1億3500万円。それがテレビ番組制作現場ではフリーや制作会社の契約職員はおそらく1億円前後から1億数千万に過ぎず、格差は歴然。フリーの番組制作者はワーキングプアすれすれという驚くべき数字だった。
 では、この危機をどう乗り越えるのか? 
 野中氏は、現場の制作者たち自身が当事者として闘ってこなかった問題点を指摘した上で、次のように提言した。一つはジャーナリスト教育の必要性。ジャーナリストの倫理をテレビ局・制作会社を問わず現場制作者が学ぶシステムをつくること。緊急相談窓口として「相談ホットライン」などの設置も提案した。もう一つは個人加盟のジャーナリスト・ユニオンの創設。賃金・労働条件のような構造的問題は構造的解決が必要と提起し、現場から立ち上がることを呼びかけた。
 第二部の討論では、NHK元プロデューサー永田浩三氏が「1990年代、番組の大型化とともに取材が一人のディレクターだけでは対応できず多くのディレクターの集団取材をプロデューサーがまとめる方法に変ってきた。同時に現場を直接取材するディレクターの意見が尊重されず、プロデューサーによる番組管理が強まってきた」と語った。「ETV2001」制作時も、取材は制作会社のディレクターに任せ、プロデューサーの永田氏は一度も女性国際戦犯法廷の現場に足を運ぶことができず、番組改変の修羅場で「足腰が弱くて頑張れなかった」と自戒をこめて語った。現場に根ざさない制作体制が「政治介入」への抵抗力を弱め、ジャーナリズムを衰退させる一因であることを実感させる発言だった。

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年4月25日号より)

 

 

 
 

文化の力は政治より強い

JCJ新聞部会2月例会で金度亨さん講演

 
 


 「沖縄県の米軍普天間基地移設をめぐる日本のマスコミ報道は疑問だらけ」〜韓国ハンギョレ新聞の東京特派員、金度亨(キム・ドヒョン)さんは2月16日、東京で開かれた日本ジャーナリスト会議新聞部会の例会にゲストスピーカーとして出席し「特派員が見た日本・この三年」と題して率直な感想を語った。
 1960年生まれの金記者は2007年1月から東京特派員を務め、今年3月に帰国する。この間、沖縄に2度取材に出かけ、基地負担の重さを目の当たりにしたと振り返った。「地元で普天間基地の県外・国外移設の感情が高まるのは当然のことなのに、それをマスコミは十分に大切には扱っていない」と問題提起した。
 さらに「基地移設問題で(交渉がこじれると)日米同盟関係が危うくなると報道されているが、国民の意見はどうなのか。ある新聞の世論調査によると、現在の日米合意案でいくべきだは20%にとどまり、県外・国外移設が50%近く。日本のマスコミは国民世論に追いつかない状況になっている。なぜ、このようになってしまったのか」と批判した。
 興味を持って報道した問題に格差、貧困、雇用不安をあげた。「一億総中流の日本」がなぜ格差問題などに直面したか、気になるテーマだったという。昨年1月には東京・日比谷公園の年越し派遣村を取材した。「印象的だったのはユニクロの柳井正社長と会ってインタビューしたこと。彼は非正規社員を無理矢理に整理するやり方を問題視し、大企業が国民を敵に回していると非難していた」と会見の内容を披露した。
 「記者として幸運だった」と言葉に力を込めたのは昨年8月の総選挙と政権交代。「1955年以来の自民党体制が崩壊した。歴史的な出来事を目撃できた」と語り、もしこれがなかったら「記者生活も退屈だったかもしれない」と笑わせた。
 日本は複雑で多様な顔をしている社会という思いも強くしたという。「元自衛隊幹部のように、過去の侵略戦争を正当化する人がいる一方で、黙々と従軍慰安婦の問題に取り組む市民団体もある。再び戦争をしてはダメだという市民の気持ちは思ったより強いと感じた」
 金記者は1950年代、60年代の日本映画をこの3年間で百本ぐらい見て、「すごく勉強になった」とも語った。「日本の原点、日本人の心が見えてきた」「文化の力は政治・外交の力よりはるかに大きい」と強調。日本の朝鮮併合百年にあたる今年、過去百年の歴史と、これから百年の未来、両方をバランスよく見つめ、日韓の真の友好につなげることが大切とスピーチを結んだ。
 ハンギョレ新聞は1988年の創刊。韓国の民主化運動にかかわり解雇された新聞記者らが中心になって誕生した。新しい民主主義を根付かせるには、新しいマスコミが必要だと考え、6万人の市民から200億ウォンの資金を集めたという。(S)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2010年3月25日号より)

 

 

 
 

企業スポンサー撤退が止まらない

大野 晃

 
 


 アコム陸上競技部が今年度いっぱいで廃部を決めた。昨年からの企業スポーツ部の実質的な休廃部はマスメディアが報じただけでも20を超える。
 トヨタ自動車が今年限りで自動車レースのF1から撤退することを決め、日本メーカーの参戦はゼロになる。
 日産自動車が来年2月で命名権を継続しないと発表した横浜国際総合競技場の新命名権契約が進まず、「命名権商法」に暗雲が立ち込めている。
 世界金融危機以来の景気低迷により、スポーツからの企業スポンサー撤退が止まらない。東京五輪が幻になって、さらに企業スポーツ部の休廃部が進むおそれが出てきた。
 にもかかわらず、日本オリンピック委員会(JOC)は企業スポーツ対策に動こうとしない。それどころか「オリンピック招致戦略本部」を新設して「五輪招致」にぶら下がろうともがいている。しかも本部長には、東京五輪招致委員会事務総長内定後に国際オリンピック委員会(IOC)から、スポンサー企業であるスポーツ用品メーカーのミズノの会長では倫理規定に触れると指摘されて白紙に戻した水野正人JOC副会長をすえた。スポンサー重視を鮮明にして、「競技者第一」を宣言したIOCに背を向けている。競技者不在のJOCが「チェンジ」を拒否している。
 スポンサー企業との関係で競技者を守ることは竹田恒和JOC会長も出席した今年10月のIOCコングレス(全体会議)が決めた最重要課題の一つだ。競技者に対し問答無用の所属企業スポーツ部休廃部はJOCが責任を持って対処する重要問題なはずだ。しかし、マスメディアのほとんどは東京五輪招致失敗と同様にJOCの責任を問わない。
 バンクーバー冬季五輪開幕まで100日を切った。日本代表候補たちは様々な競技環境悪化の中で苦戦を続けている。それでもJOCは緊急対策を示そうとはしない。ムダな法人に成り下がったか。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年11月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
<その13>

「社会を彫刻する市民活動」

畑泰彦

 
 


 09年度の黒田清JCJ新人賞はイギリスの反戦活動、あの大きな時計のビッグベンをかついだ国会議事堂の向かいで、2001年からピケを張っている「ブライアントとその仲間達」を撮った映像作品で早川由美子さんが受賞した。
 由美子さんはあのロンドンで、市民が自由にモノをいえる社会こそが健全な社会なのでは、そう信じて制作したと感想を述べていた。
 その映像の中にでていたが、政府によって強制撤去されたブライアンたちの抗議のシンボルとして、一時は横に40メートルあった立て看板を忠実に再現したマーク・ウォリンジャーの作品が、ヨーロッパ現代アートの登竜門として有名なターナー賞をとり、テート・ブリテンでの展覧会で展示された。
 ヨゼフ・ヴォイスが提唱した「誰でもが芸術家・社会彫刻」という考え方がアート先進国にあり、美術界も「社会を美しく彫刻するブライアン・ホーの市民活動」にエールをおくったのだと思う。現在は縦横3メートルに制約されてしまっているが、彼らの政府との闘いは続けられている。
 イギリス政府は抗議の看板を壊したつもりだったのだろうが、再制作された看板はターナー賞をとって永久に美術館に保存され時折、他の国で展示されている。ちなみに過去の受賞者にはギルバート&ジョージ、トニー・クラック、アントニー・ゴームリ、ダミアン・ハーストがいる。

 ひるがえって、日本はというと、まだ社会は現代アートに近づくのためらっているようにも思える。それでもアートの方から社会に近づく実験がなされている成功例がある。それが「大地の祭典、越後妻有アート・トリエンナーレ」だ。
  越後妻有(つまり)地域は各集落が「うちの米が日本一うまい!」と自慢げに語る米の名産地。集落ごと、生産者ごとに味に違いがあり、それぞれとびきりのおいしさ。
 新潟県出身の北川フラム(女子美術大学教授)という人が、総合ディレクターとして新潟県の人的コネと知恵を使って、新潟県妻有地域にアートの実物をもってきて「社会彫刻」をはじめている。地元の景観を壊すことなく、いやむしろ美しい棚田のある美観を守るために、いまや地元の人々の心の活性源となっている。はじまって10年、3年に一回の展覧会だが常設のものも多い。妻有の地には数々の芸術祭の拠点や作品ができ、また空き家や廃校の再生、耕し手のいなくなった田んぼを守る会など、世代、ジャンル、地域を越えた協働が進んでいる。

 北川さんが世界中から引っぱってきたジェームズ・タレルなど、高質のアーチストたちの作品は、日本の作家たちにも良い影響を与え、良質の作家と作品を育んでいる例が多く見られる。
 北川さんの美術活動の予算の生み出し方のなかには、各市町村の公園事業費を使った仕組みのものがある。津南町上野集落に小さな美しい公園を造った。韓国の作家、金九漢(キム・クーハン)氏と上野集落の住民のコラボレーションで造られた。真ん中に陶でできた庵のある公園には、住民の手で美しい草花が植えられている。手入れがよくほどこされていて、憩う者を癒してくれる。2003年に造られたものだが、造りあげる1年ほど前から、計画を上野集落の住民との話し合いをもった。
 「かささぎたちの家」と題された美しい絵の描かれた陶製の庵は、すっぽり窯で覆い、約一ヶ月間かけて焼かれ、完成した。陶製の庵は、時を経るにつれて、ますます集落にとけ込んでいく。草花の絵や鳥の絵が目立つことなく描かれてあり、伊万里とか九谷焼をみる思いもする。私のお気に入りの一つである。

  展覧会のガイドブックを見ながら、美しい妻有地方を車でゆったりとまわる。木々の間から見える棚田、そして新潟らしい茅葺きや瓦葺きの民家がぽつぽつと現れる。その中のいくつかが、目ざす作家のギャラリーだ。残したい、美しい日本民家が修理強化されギャラリーとしてこのまま保存される。いつまでも、そうあってと願う。

 この企画の民家の修理には現代の棟梁である田中文男氏が関わっている。彼の木造民家を愛する気持ちが伝わってくる。関東の都市部では木造の家屋は特別な建物でなければ、まちがいなく壊され鉄とコンクリートに替えられ高くそびえる。築地で働いていた私は、そういう風景を見て何度ため息をついたことだろう。土地がお金と化した時代の凄まじさはいかんともしがたい。それこそ政権交代でモノの価値観が変わってほしいものだ。

 あちらこちらと旅行をしていると、その地域の家屋の造りにそれぞれの文化の特徴が表れている。それぞれに、長く持ちこたえてほしいと思いながら歩いているのだが、何年ぶりかで訪れると、もうその家はなくなっていたりする。新手のプレハブに変わっていたり、コンクリートの建造物に変わっていたりする。
 せめてその町のシンボルである役所くらいは、廃屋などを引き取って民家造りのものにして小さな集落にまとめるなどして、家屋ごと○○課などとして後世にのこしたらどうだろう。修理費などは文化事業費でまかなえばよいではないか。美しいし、その県、その市町村の、人の歴史の意識がカタチで残せるのだから。
 
どこの役所も知恵のない巨大コンクリートになっているのは、いったいどうしてなのだろう。フランス、オランダやベルギーは、大都会なのに歴史のある建物を役所として合理的に改造して使っているではないか。石だから木だからとかの問題ではないのは、いうまでもないことだ。

 話を妻有にもどそう。この地域に約370もの作品が、天に、地に、人家にある。
 この美しい緑の地域は、アートを発見する冒険にあふれている。いままで見たこともない新しい感覚を体感する、そんな作品が田舎家の中にあったりして、同時に生活していた人の歴史もうかがい知れる。次はどんなかなと楽しみになってきて、足が動き出す。
 地元の人と話ができるのも楽しい。住民もアートのボランティアをしており、もう都会の人との接触にもなれてきた。今回も作品のある家の向かいの住民と話ができた。興味深い家屋の中を見せてもらい、お茶もいただき、新潟地震のすごさの話もきかせてもらった。

 この妻有ビエンナーレには、初期から、こへび隊というアートサポート学生ボランティアがあり、彼らと住民との間でつちかわれていた信用が生きて、2004年の中越大震災では、北川さん以下、こへび隊たちが集落を訪ねて、崩落した家のかたづけ、清掃、話し相手など家の中に入って、お手伝いができたという。社会に巣立った、こへび隊は、おおへび、ドクヘビとして外国人はコブラとかいって何かがあると、かけつけるという。

 廃校を美術館にしたものでは、ボルタンスキーの学校丸ごとの大規模な作品が有名だが、今回は十日町、鉢集落にある絵本作家の田島征三の「絵本と木の実の美術館」を訪ねた。
 美術館は鉢という谷あいの小さな集落の真ん中にある。廃校になった旧真田小学校を一部改造しただけで、そのまま使っている。鉢の住民は、すべてこの小学校の卒業生だ。2年前、市町村合併で在校生が3人しかいないという理由で廃校になってしまった。私の通った小学校も跡形もなく壊されてしまっていたが、そこに立った時の、その「何もない」という思いがいまでもむなしさを呼び起こす。

 建物を壊すというのは記憶を壊すことイコールだと思う。だから、この集落の住民は、あと何年かで取り壊される運命に立ち上がったのだと思う。田島征三のホームページの住民の写真からは、廃校を美術館にする喜びが伝わってくる。そこにある作品は、最後の在校生3人が楽しく元気にあばれまわるのを各教室を使って絵本の世界のように、巨大でカラフルに表現している。
 
じっちゃん、ばっちゃん、若い住民と田島征三のコラボレーションだ。元職員室はレストランになっていて、自然食の昼食を食べさせてくれる。住民の女性たちが手際よく作っていて、おしゃれで、おいしい。地元の肉が入っているものもある。食事をしている間に人がふえてきた。東京から車で来ている人が多くて田舎という感じがしない。土日はもっと混むそうだ。「こげんなかでも人がきてくれてうれしい」といっている。

 地方の活性化と言われているが、その地域の人たちだけでは活性化は生まれない。
 3年前、イギリス中部の湖水地方に拠点をもつグイズデール・アーツというアート・グループは、星峠集落に一か月以上滞在して作品に取り組んだ。星峠の住民は70人。58人が65歳以上という。作家は集落の将来について住民と一緒に考え、集落の米や産物を販売するネットショップを立ち上げた。会期終了後、星峠の人々は作家に招かれてイギリスを訪問した。元気な村人たちとの絆は峠をこえて広がっている。イギリスの作家は2012年の大地の芸術祭に向けて、星峠集落を舞台にした作品を準備中だという。

越後妻有 大地の芸術祭2009夏(終了)
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/info/guide/tokamachi.html
同アート作品情報
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/photo.php?year=2009

 

 

 
 

スポーツの人間的価値を語れ

大野 晃

 
 


 ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本開催が決まった。来年から高速水着の規制が始まる。衆院選では自民党が「スポーツ基本法」制定を公約にした。 
 日本スポーツに根本的な影響を及ぼす動きが相次いでいる。しかしスポーツマスメディアは表面的な解説に終始して、建設的批判や将来の方向性の提言は皆無である。 
 ラグビーW杯開催は商業主義が先行し、日本ラグビーの現状では無謀にさえ見える。水着騒動はメーカーの商業主義的狙いに振り回される水泳界を露呈した。「スポーツ基本法」は国家介入の選手強化や国際競技会開催を意図したものだ。
  いずれも現代スポーツの根源的な問題を提起している。スポーツの政治的、商業主義的利用をどう規制し、スポーツの人間的価値をどう発展させるかである。
  プロ化が進んだとはいえ競技者は身勝手に利用されることへの不満や将来の不安を抱いている。頼りの競技団体がしっかりした方向性を示さずブレ続けているからだ。マスメディアは競技団体幹部に迎合するか沈黙を決め込むかである。
  マスメディアがスポーツの人間的価値を語ることもめっきり減った。競技会の経済効果や政治的役割の分析には熱心なようだが、競技に人間性を見出そうという姿勢が見えない。スポーツ愛好者のマスメディア離れが進む原因になっているのではないか。多様な競技結果を追うことに多忙なのかもしれない。 
 しかし多様性のなかに人間的な欲求の深さを知り、その環境条件に目をこらして熟慮する必要がありはしまいか。  どうしたらW杯開催を真の成功に導けるか。水着メーカーはどう水泳に協力すべきで、すべての競技に共通するルールは何か。スポーツ基本法には何が必要か。原点を見直し建設的批判と提言に意欲的であることこそスポーツマスメディア再生のカギだろう。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年8月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
<その12

 「アール・ブリュット、ジャン・デュビュッフェそしてコブラ」=その3

中津川浩章

 
 


 アール・ブリュットの作品は、他者に向かって感覚が開かれている。そんなことをよく感じる。作為的がなく、ナイーブでストレートだ。作者自身は心のどこかに、人間が生きていくうえで避けられない疎外感や欠落感を抱え込んでいるだろうが、その作品には世界とのある種の一体感・肯定感が存在する。

 このパラドックスはいまだに謎だ。 私が長く関わっている障害者のアートを専門に活動している施設「工房集」(以下「集」)に、斉藤裕一というドローイングの作品をつくるアーティストがいる。滋賀近代美術館や水戸芸術館での展覧会に出品したり、アメリカなどで展覧会を開いていて評価もされてきている。前に、サイ・トゥオンブリについて書いた時にも、彼の作品については紹介したことがあるのだが、そこをもう少し掘り下げてみたいと思う。

 斉藤裕一は、サイ・トゥオンブリの作品を知らないだろうから、影響を受けたとは考えにくいのだが、とてもよく似ている。サイ・トゥオンブリの場合はプロのアーティストなので、社会にかかわる上での「歴史観」や「戦略」のようなものに基づきながら、自らのスタイルを構築していくこともあっただろうが、斉藤の場合はそのような「知の遠近法」は持ち合わせていないと考えるのが自然だろう。

 しかしながら両者の、その文字を、引っかくような繊細なタッチで繰り返し描き、詩的な空間を作り出していくスタイルに、明らかな共通性を感じるのは私ばかりではないだろう(それは描くことの根源性に対する「信頼感」や「こだわり」に深く関係しているように思える)。コンセプトから組み立てられたスタイルではなく、思考や身体の内在する経路を経たときに、どんな人間にも内在する感覚を取り出してきて形にしようとするスタイル――私には、両者に共通する「スタイル」の奥に、それが感じられてならないのだ。

 描きたい、引っかきたい、何かを外に出したい、叫びたい、そういったプリミティブな初期衝動的な欲求がまず存在し、その感覚を具体的な「描く」という行為を通じて、目に見えるものへと外在化させていこうとする手法。それは、作者の個人的な思いというよりは、もっと深く広い、個人を超えた、人間が普遍的にもつ「何か」を表現しようとする力強いエネルギーに支えられているのではないか―。

 その行為においてアーティストは、その「何か」を繋ぐ媒体になるのではないか、なろうとするのではないか。表現として、アートの世界の中で、作品として成立するかどうかわからないまま、噴出されるプリミティブな初期衝動は、自己表現を超えた内在的な宇宙を描き出していこうとする―

 執拗に文字をガンガン反復し描き続けることで、言語本来の意味が窯変していき、隠されていた呪術性が浮かび上がる。その行為はアートというよりは、祈りにも近いものへと浮揚していく感覚だ。刻まれた文字・言語が、単に日常的な情報のやり取りだけのコミュニケーションを超えて、より深化した呪術的な意味や深さを伴いながら、別のコミュニケーション媒体へと変わっていこうとする。

 「集」のアーティスト西川泰弘とアボリジニのアーティストであるエミリー・ウングワレーに同じことが当てはまるように思う。西川も斉藤同様、エミリー・ウングワレーのことを知らない。だが、同じようなコスモロジーを感じさせてやまない。これも、その世界は、アートというよりも呪術と呼んだ方がふさわしい。

 私の周囲だけ見回しても、こういったアーティストが何人もいるのだから、多分同じような事象は探せばたくさんあるのだろう。美術史は時系列に沿って作品や作家の価値を整理して体系化しようとするが、作品を生み出すすべての要素は人間そのもののなかに内在している。ものをつくる際に、こうしたいああしたいという目論見よりも、「何かわけがわからないけれども、作っていって楽しく、快楽に導かれるままにつくっていったらこんな感じになった」「意味があるかどうかはわからないし、そもそも意味がないかもしれない」。そうした行為にリアィティを感じ、その感覚の中に没入すること―。

 客観的な知性をもってすれば、それをしたところで意味などないと感じることや、また行き止まりに突き当たっているのに、それに躊躇することなしにドンドン進んでいった結果、見えてくるもの―。優れたアール・ブリュットのアーティストたちは、そんな「ドライブ感」を共通して発散している。意味などないと思われるような行為を続け、繰り返すことが、まだ見ぬ未来の真の意味を掘り起こし、生み出してしまう。

 それは私たちが、何らかの理由で自分達に都合よく変形したり、意味(既にわかっている言説)に還元することであるフィルターをつくり、結果として、社会に適合していく。意識的か無意識でなのかは別にして、演出したり、組み立て着地点を考えることなく、普通の意味で社会的に生きるという姿勢から飛び出して、つまり「意味」や「解釈」のフィルターなしに、直接感じた世界を、生のままに直接表現するのが、アール・ブリュットといえる。そこにみられる「等身大の精一杯」は、強い。

  私が日本のアール・ブリュットに興味を抱いたのは、まだ銀座にあったギャラリィKで「アートアンドデイケア」展にかかわったのが最初だった。その準備のために、精神科や保健所で、鬱病や統合失調症の人たちとボックスアートを作るサポートしたのがきっかけだった。これは貴重な体験だった。その後も、エイブルアート(旧名・障害者芸術協会)の展覧会を手伝ったり、コンペの選考委員を務めたりした流れで、川口太陽の家・工房「集」の設立に参加した。「集」のキュレーションを務めながら、障害者関係の様々なワークショップを実施してきた。

 日本のアール・ブリュットのアーティスト達は、発見されたり、制作している場所が、福祉の作業所が多い。そのため、アートと福祉の線引きが曖昧だ。アートの定義がはっきりしている欧米に較べ、日本ではまだアートは文物としてしか成立していないのが現実だと思う。社会の成立基盤が異なるのに、欧米の概念をそのまま輸入しても、日本の現実とうまく対応するはずもないが、これは「民主主義」とか「市民社会」という言葉の定義同様、アートだけに限った問題ではないのは周知のとおりだが、そこにまた面白いところもあることも事実だ。

 自分たちの現実からアートを作っていくという喜び、そしてその必要性だ。これはアール・ブリュットだけでなく、アート全般を考えても同じかもしれない。ただ、アール・ブリュットに関して、一般のキュレーターはアートと福祉とを無理やり分別しカテゴライズしようとする流れがある。そのため、きれいな上澄みだけを掬い取ることになってしまうことが多くなる。

 福祉とアートは別ものであることはもちろんだが、福祉の現場でアートが生まれている事実は無視できない。改正(改悪)された障害者自立支援法など日本の現実的な問題が、そこに様々に関係してくる。アートと福祉だけでなく、アートと教育の関係にも同様の問題が潜んでいる気がしている。

 「集の仲間たち」(「集」では障害者の人たちをこう呼んでいる)と過ごす時間の流れは特別だ。そのたおやかな時間の中にいると、彼らの創造の秘密に少し触れたような気がしてくる。ゆっくりとした時間が流れていき、みなめいめい勝手に何か作業している。まったく制作しないで一日中ボーっとしている仲間もいる。窓にはカーテンをつけず周囲の風景をいつも感じられるようになっていて、外からも中が丸見えだ。

 時間も空間も「開かれた」感覚が、創造に影響を与えていることは間違いないだろう。そんな現場の空気感を直接つくりあげたのは、福祉の現場にいるスタッフたちだ。アート畑にはいないスタッフたちが、仲間たちがいかにしあわせな時間を過ごすことができるかと試行錯誤し、「集」に開放的な空気感をもたらしている。その現実からみると、福祉とアートをきっちり線引きすることはアートだけを定義するにはすっきりしていいのだが、その半面で、福祉とアートの線引きは、新しい価値観を提案したり、様々な事象が相互に深く関係する現実や今後の可能性を見えなくしてしまう気がする。

 ジャン・デュビュッフェが提唱したアール・ブリュットだが、その時代の他のアートとまったく無関係だった訳ではない。たとえばアンドレ・ブルトンが運動化したシュルリアリズムは、一般的なイメージだと幻想的なアートとして捉えられがちなのだが、ブルトンが志向していたものは彼の著作である「魔術的芸術」を読むとちょっと違うことに気がつく。

 幻想的なイメージはどちらかというとは入り口に過ぎず、呪術的なものがいかにアートの中に入り込んでいるかというビジョンで書かれている。多くのプリミティブアートについてや、素朴派のアンリ・ルソー、後期印象派のP・ゴーギャンについても触れている。また、魔術や狂人、理性の眠り、不条理性など、アール・ブリュットとも関係してくるキーワードがいくつも登場する。

 シュルリアリズムはフロイト精神分析の影響にあったため精神異常や狂気の問題にコミットし、まさしく現実を超えるリアルなもの、理性を超えるものとして狂気を捕え、それらの芸術をシュルリアリズムとして解釈し定義した。ブルトンの小説「ナジャ」はまるで統合失調症の患者が書いた手記のようだ。

 さらにロデスの精神病院でおびただしいデッサンを残したアントナン・アルトーは、シュルリアリズムの詩人でもあった。また、シュルリアリズムから影響を受け、奇妙な写真と油彩・水彩画を残したヴォルスは、ジャン・デュビュッフェと同じアンフォルメル(不定形の絵画)運動の画家とみなされていた。

 そのようにアール・ブリュットはシュルリアリズムと深い関係がある、というよりも地続き・グラデーションと考えたほうがいいと感じている。 そして「コブラ」はかつてそのようなアンフォルメル絵画の北欧版と紹介されていたのだ。

「コブラ」はコペンハーゲン・ブリュッセル・アムステルダムの頭文字をつなげて作った名称だ。1948年に結成され、代表的なアーティストはアスガー・ヨルン、P・アレシンスキー、コンスタン、アペル、ドートルモンなど。特異なのは、シュルリアリズム運動から影響を受けたこともあるが、詩人と美術家が絵や詩を共に制作し、社会運動として芸術運動を展開したことだ。

 当時のことなので、当然メンバーは共産党に入っていた。また無意識や夢を説明的なイメージで表現するのではなく、激しいブラッシュ・ストロークや鮮やかな色彩や強い物質感など、シュルリアリズムより直接的で身体性が強い喚起力のある祝祭的な作品を提唱した。またその根源的なスタイルはアール・ブリュットとも共通する。以前紹介したシュルリアリズムから影響を受けた同時期のアメリカ人画家J・ポロックや抽象表現主義に近いところがある。

 ただ異なっているのは、子どもの絵ややはり精神病の人間の絵画、キリスト教文化以前のケルト文化などのプリミティブアートや民族芸術に影響を受けたことからわかるように、純粋抽象ではなくあえて具体性をその中心に据え、あくまで人間の問題として捉えた点が異なる。これはそのまま当時のアメリカとヨーロッパの相違点と相似形をなしている。

 また、北欧というヨーロッパの中心ではない地域で「コブラ」が生まれたことはマージナルな視線が存在していたのだろう。 マージナルな視線との関連でいうと、アレシンスキーは1958年に来日し「日本の書」という映画を撮影し、またその著作「自在の輪」の中で仙崖や白隠について多く語っている。彼の作品も書に影響を受けた独自のタッチの絵画だ。

「コブラ」は、理由はわからないがわずか3年で解散している。

 以前こんななことを書いたことがある。――このまま情報化が進み、資源の有限性が認識されていくと、イメージとしての世界は密室化し、ますます縮小し続けるだろう。現代のアメリカは他者が存在しない世界から他者の存在を意識する世界への転換が必要になるだろう。

 J・ポロックが代表する現代美術が、アメリカの抽象性・物質性の始まりをつくった。それはアメリカ式グローバリズムの考え方とシンクロし、確かに一時代を作り上げた。現代アートの方向は、いまだにその抽象性・物質性のグローバリズムの延長戦上にある。さらに様々なジャンルと交わり、メタ建築・メタデザイン・メタイラストレーション・メタメディアとなって、アートというジャンルの可能性拡がりを模索し、それらはすべて水平軸に拡がっていくこととなっている。

 そうした状況の中だからこそ、アール・ブリュットは新たな、そして切実な意味をもつように思う。アール・ブリュットは、行き止まりの道を進む人間そのものを肯定する。希望がなくても絶望しないこと、新しくはないが決して古くはならないことを思考すること。つまりジャンルの横断といった単純な可能性ではなく、人間の全体性、不合理性に立脚した可能性を考えることだ。それは人間の垂直軸に対するアプローチとも関わってくるだろうし、信仰なき時代、そして世界の周辺を生きていかざる得ない日本人にとっても重要なことだろう。

 アール・ブリュットもコブラも人間性への信頼が存在する。それは不完全な世界をあえて肯定していく感覚だ。冒頭に書いた世界との一体感は、そんな感覚からやってきているのではないかと思う。

*これで、3回続いたアール・ブリュットについては終了です。書いてみると、まだまだ書き足りないことがたくさんあることに気がつきましたが、他の論評の際に関係付けていけたらいいなと感じています。

■工房集
http://minuma-hukushi.com/KOBO-SYU/index.shtml
■中津川浩章(Hiroaki HP)
http://nakatsugawahiroaki.web.fc2.com/

 

 

 
 

努力規定より「権利」と定めよ

大野 晃

 
 


 自民・明両党が強引に駆け込み提出した「スポーツ基本法」案は衆院解散で廃案となった。国家戦略として選手強化を進めるなど国家主義的内容にはスポーツ愛好者の批判が多く、民主党も拒否しスポーツ議員連盟の一致を見られなかった。

 しかし、国民のスポーツする権利を明記したスポーツ基本法の制定は緊急課題である。
 現行のスポーツ振興法が努力規定にとどまっているため、国民スポーツを振興する行政課題が財政事情の悪化などにより放棄されようとしているからだ。絶対的に不足している国の施策は縦割り行政により非効率的なままで、多くの地方自治体では施設整備や運用などの民間委託が当然のように促進され、自由に手軽に使える施設は減る一方である。東京都はその典型だ。しかも民間施設の閉鎖も相次ぐ。国民のスポーツする環境は劣悪化を加速している。そのうえ企業支援の減退がのしかかり、競技者の生活は極度に不安定になった。

 「スポーツは基本的権利」を宣言したユネスコの体育・スポーツ国際憲章に基づき、欧州など多くの国々では多様な国民スポーツ振興施策が実施され、オリンピック憲章もスポーツ権を明言している。日本は基本理念を無視してオリンピックを追い求めてきた。スポーツ権を確立する基本法制定なくしては、日本は世界の孤児であり続ける。

 自民党がゆがんだ基本法案に動くと、日本オリンピック委員会や日本体育協会は迎合したが、広く議論はしない。マスメディアもまた、ほとんど関心を示さない。行政の大幅後退に沈黙を決め込むのと同様である。

 あらゆるスポーツ関係者がスポーツ権を明確にして、日本スポーツの現状を厳しく見つめ直し基本法論議を深める必要がある。スポーツマスメディアには論議を提起する材料提示の使命がある。メダル争いばかり煽っても、足元が崩れては取り返しがつかない。

(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年7月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
<その11>
「アトミックサンシャイン」沖縄展検閲事件―九条と沖縄、いま問われる「表現の自由」

古川美佳

 
 


 去る4月11日から5月17日まで沖縄県立博物館・美術館で開催された「アトミックサンシャインの中へin沖縄―日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展において、大浦信行氏の天皇をモチーフにした版画作品「遠近を抱えて」全14点が、同館長や県教育委員会の「教育的観点からの配慮」によって、展示を拒否されるという事件が起きた。

 牧野沖縄県立美術館長によれば、「沖縄の教育施設であり、公正中立なものを扱うなどの観点から総合的に見て適切ではない」というのが展示拒否の理由だ。だが教育や中立を口実とした展覧会への介入は、明らかに違法・不当な権力の行使であり、検閲である。

 08年にNYと東京で開催され、沖縄で三度目の巡回展となった今回の「アトミックサンシャイン展」の趣旨は、企画したキュレーター渡辺真也氏によると、「戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、それに反応した日本の戦後美術を検証する試み」だという。ならば戦後日本の縮図である沖縄での展覧会で、天皇を扱った作品を排除してまでも開催したその企画の意味も一方で問われざるをえない。

 今回展示を中止された「遠近を抱えて」は、1986年に富山県立近代美術館で展示・購入された中、昭和天皇の写真をコラージュしていることから、県議会と右翼の攻撃によって非公開とされ、その後作品売却、図録焼却された経緯がある。

 それがなぜ再び沖縄で排除されたのだろうか。第九条と第一条〜八条「天皇条項」との両立には、戦後沖縄の分割及び基地化が影絵として横たわっている。ここ数年の沖縄戦をめぐる歴史認識のねじれや、アジアの過去史清算などの葛藤が、九条によって平和偽装されたかのような日本の歩みの中で、いまさらのように沖縄という場で露呈したともいえる。

 英国の作家・E.Mフォースターは、ナチスドイツの時代に「表現者本人の気持ちの自由」、「自分の気持ちをほかの人間に伝えられる自由」、「一般市民の見る自由(発信を受信する自由)」を強調していた。今回の検閲事件は一見自由を謳歌している私たちに、こうした基本的人権の要となる自由の危うさを見せつけている。

 日本人は象徴天皇制の呪縛から気持ちの上でも解き放たれず、この種の「目隠し」に見てみぬふりをし続けるのだろうか。実際、この事件は沖縄では新聞の一面で大きく報道されたというのに、県外ではほとんどとりあげられていない。既に大浦氏と支援者が260余名の抗議署名を集め、館長に面会したが、同じ返答ばかりだったという。そこでこの「ねじまげられた自由」を封じ込めずに抗議の声をあげていこうと、美術家や表現者有志が「緊急アートアクション」を計画中だという(7月20日〜8月1日東京GALLERY MAKI)。国家制度上身動きがとれない表現の現状について、いま一度共に考え行動していくべきではないだろうか。

(韓国文化研究/JCJ広告支部会員)

*抗議声明、緊急アートアクションの詳細は、こちらへ。

■この問題を徹底討論!会場からの声も大歓迎、シンポジウムにぜひご参加を!

<シンポジウム>「アトミックサンシャイン」沖縄展の検閲に抗議する!
日時 2009年7月18日(土)午後2時から8時
場所 日本教育会館902号室
内容
<第1部>「沖縄・九条・天皇・検閲・表現をめぐって」
パネリスト:鵜飼哲(一橋大学教員)、大浦信行(美術家・映画監督)、徐京植(作家・東京経済大学教員)、白川昌生(美術家)、針生一郎(文芸美術評論家)、毛利嘉孝(社会学者)
<第2部>「沖縄―アトミックサンシャイン展を検証する」
比嘉豊光(写真家)、新垣安雄(美術家)、仲里効(批評家)、太田昌国(編集者)、小倉利丸(富山大学教員)、宮田徹也(日本近代美術史研究
主催
<緊急アートアクション2009>―「アトミックサンシャイン」沖縄展の検閲 > に抗議する美術展
会場:GALLERY MAKI(茅場町)http://www.gallery-maki.com/
〒104-0033 東京都中央区新川1−31−8 Tel/Fax:03−3297−0717
展示期間:7月20日(月)〜8月1日(土)13:00〜20:00(日曜休廊)
この美術展は下記の三つのグループが運営しています。
「沖縄県立美術館検閲抗議の会」
「大浦作品を鑑賞する市民の会」
「富山県立近代美術館検閲訴訟元原告有志」

 

 

 
 

南アW杯――途上国発展の夢と熱気を

大野 晃

 
 


 サッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会開幕まで1年を切った。
 4大会連続出場を決めた日本代表の強化にマスメディアの関心は集中しているようだ。
 一方、開催地情報は巨大施設の建設や道路整備などが中心で政治的・経済的不 安材料や治安の悪さが強調されている。

 マンデラ黒人政権が発足して1年後の1995年、南アはラグビーの第3回W 杯を開催し、初優勝を飾った。巨大な黒人貧困層を抱え格差が極端に広がる中で、大会は人種融合をアピールする政治的色彩が濃かった。世界に誇る白人スポーツでようやく国際舞台に復帰し、世界の頂点に立ったのだから白人の喜びようはすさまじかった。しかしほとんどの黒人は蚊帳の外。それでも国による黒人 居住区のスポーツ施設整備や普及指導は始まっていた。

 約1カ月間の取材滞在だったが、極度の治安悪化で犯罪防止を理由に宿舎に「軟禁」状態に置かれた。宿舎と競技場など関連施設をタクシ―などで点から点へと移動するありさまだったが、ヨハネスブルクの黒人居住区ソウェトで目にした少年たちが忘れられない。バラック小屋脇のデコボコ道を走り回り、泥だらけのパンツ一枚に裸足で砂ぼこりをあげながら、サッカーボールを追う姿に、たくましさと未来への息吹きを感じた。サッカー選手の夢を語る目が輝いていた。サッカーこそ国民スポーツだった。

 15年後、夢に見た最高の舞台を迎える。環境改善がなかなか進まないのは事実だろう。貧困による治安の悪さも悩みには違いない。しかし主人公としてスポーツを楽しむ体験が社会生活に変化をもたらしていないか。世界最大のスポー ツ祭典が初めてアフリカで開催される世界史的意義やアフリカ・スポーツの発展は。この1年、南アを中心にアフリカ・スポーツの実態を見つめながら途上国の夢と熱気を伝える報道を期待したい。

(スポーツジャーナリスト) 

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年6月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
<その10>

草間彌生 無限論

大川 祐

 
 


 友人から精神科医の高橋龍太郎が集めた高橋コレクションがとても良いという話を聞いた。日比谷で4月25日から草間彌生展をやっているという(七月二十六日まで)。11時の開店?(開館か)を外で待ち、早速見に行った。

 草間彌生には強いメディアのイメージがつきまとう。ドット、ファッショナブルなセンス、強迫観念、幼少からの幻覚体験、特異な彼女のキャラクター。最近では携帯電話のイメージキャラクターが思い浮かぶ。しかし、彼女の作品を目の前にした時それが全部吹き飛んでしまった。

 会場には初期の頃の作品から網目の作品、ソフトスカルプチャー、ドットのかぼちゃの絵画など所謂草間彌生らしい作品で占められていた。「Nets Obsession」と題されたグアッシュで描かれた網目の小作品の前で私の思考が回りだした。面白い。緑色の背景にピンク色の対象物らしきものが見えるが対象物も背景も同様の網目模様に覆われているため対象物への意識がぼやける。

 だがピンク色の対象物らしきものは、網目が中心から外へ向かっているため、何らかの立体感を覚え実体感も伴うので知覚が矛盾する。また画面一杯にピンク色の何かが描かれているので、私の中にある地から図が認識される知覚が鈍らされ、物の輪郭の意識がぼやけ、全てが無限の中にあるように感じられる。無限の概念は彼女の中心的なテーマであるが、我々が「イメージ」として持っている無限と、実際に身体を通して無限を生きている草間彌生の世界観とは雲泥の差があるような気がする。

 私は自分の持っている観念的な無限のイメージを壊しながら、草間彌生が感じている無限感を作品に向かい合いながら全身で感じようとしていた。

 でも私は、少しだけ頭を使って彼女がこれらの作品をどこから描いたり作ったりしているのだろうと考えながら、作品を見て行った。理由は無限を生きている彼女が、有限である美術作品をどう捉えているかという疑問からだった。

 西洋の美術史は目の前の対象を認識し、分析し、批判して、新しい美術作品を創造してきた。いわば有限の世界である。絵画、彫刻、インスタレーションなどのジャンルも対象の認識からくるものである。ゆえに美術史というものが成り立つのだし美術作品の位置というか場所というものがある。もっとも草間彌生の作品も当時の美術の流れの中で出て来たものであることは確かだが、彼女の身体感覚が無限を前提にしているがゆえに支持体と絵の具の関係やイメージの認識がまったく違う方角からやって来る。

 網目の作品などはぱっと見た感じはモノクロームでミニマルなイメージがあるが、還元的ではなく観念的でもない。先ほどの、有限である美術作品を、草間彌生がどう捉えているかという疑問だが、絵画作品から見ていくと無限にも様々なバリエーションがあることが分かる。また有限としてのキャンバスをどのくらいの距離から見るのかによって、無限が我々に作用するその仕方も異なってくる。

 2005年に制作された「INFINITY-NETS(TWZO)」はある距離から捉えると草間彌生の身体が呼び出され、無限に拮抗する一回一回の彼女の手の運動がこちらに伝わってくる。また1998年に制作された「INFINITY-NETS」と題された網目の作品は、イエローオーカーの下地の上に、メディウムで盛り上げた下地と同色の網目が画面を覆っている。近くで見ると有限であるはずのメディウムの物質性が無限の相を帯びてくる不思議な感覚に襲われる。

 当時の美術はキャンバスの著しい物質化が進んだ時代であり、絵画のイリュージョン性を否定し、キャンバスが現実空間と積極的に関係を持とうとした時でもあった。その中で彼女の仕事は特異であり、絵画をどこから描くかという命題に対し無限の概念を提示した草間彌生の作品は絵画の持っている矩形の制約をも軽々と超えてしまっている。

 絵画以外はどうだろうか。草間彌生の作品の中でも有名なものにソフトスカルプチャーがあるが、ここでも彼女の無限感が物質にもたらした衝撃は大きい。彫刻はマルセル・デュシャンの登場で日常化し、オブジェ化していった。草間彌生のソフトスカルプチャーも日常的なオブジェが変容した彫刻であるが、今日でいうインスタレーションに近い。

 1980年に制作された「手のアキュミレーション Accumulation of Hands」(アキュミレーションは集積の意味)は、二人掛けのソファに中身の詰まった軍手が無数に突き出ており、所々に果物の模型がくっついていて、その全てがシルバーに塗られている。シルバーに塗られることにより日常が非日常化される。私は先に、草間彌生は無限の「イメージ」を表現しているのではなくて、無限を生きているのだと書いた。私はここで日常的なオブジェを見ることによって彼女の生きている感覚をこのソファで実感した。これが石や木や鉄などで彫刻されていたらまた違っていただろう。

 ソファの隣に、パスタで覆われたマネキン(マカロニガール Maccaroni Girl 1999)がやはりシルバーで塗られているのであるが日常が無限化することによる開放感がそれらのシルバーのオブジェたちからほとばしっていた。シルバーという色が日常のオブジェを変容させるのに役立っている。 我々はフラクタル理論などから、自然が持っているミクロからマクロへの物質の構造から無限のイメージを知っている。また青い空を見ながら無限を感じたり、無限の宇宙に思いを馳せたりするだろう。しかしあくまでも自然を対象として「認識」した場合に限ってしまう。

 だが、草間彌生の作品を目の前にする無限とはいったい何なのだろうか。彼女は自身が抱えている強迫観念をいわば世界に突返すという形を採って世界を生きている。しかし、これは彼女だけの問題だろうか。私は人間のはかない有限の一生という時間とパラレルに無限の時間が横たわっているのではないかという気がしてならない。「永遠のいま」という言葉があるが、自分がいまここにいることに意識を集中していくと、時間と空間の観念がぐにゃりと曲がり、次元の感覚が消え去りそうになり、無限の感覚に襲われることがあるだろう。

 草間彌生の無限はそうした静寂の中から生まれるものではないが、彼女の作品を見ていくと我々は、普段は分からないが実は無限の中を生きているのではないだろうかという思いに駆られるのである。でも、実際無限を生きることへの一抹の不安は頭をかすめるのであるが。 

高橋コレクション日比谷 〒100-0006 東京都千代田区有楽町1-1-2 日比谷三井ビルデイング1階 TEL:03-6206-1890 http://www.takahashi-collection.com 

会期 2009年4月25日(土)〜7月26日(日)(月休み) 
時間 午前11時から午後7時 
アクセス JR有楽町徒歩5分 東京メトロ千代田線・日比谷線「日比谷駅」(A5,A11出口)徒歩1分 
入場料 一般300円 大高生150円 中学生以下無料
※写真は「高橋コレクション日比谷」より

 

 

 
 

新型インフルエンザ 冷静さ欠く日本の行政とメディア 

「医療崩壊」の現状で困難な対応 

杉山 正隆

 
 


  大型連休をはさみ世界に拡がる新型インフルエンザ。国内でも感染拡大が続き学校休校など大規模な措置が取られたが、毒性が想定より低かったこともあり、各国では早期治療や病弱者対策に軸足を置いた冷静な対策がなされた。

  しかし、わが国では舛添要一厚生労働大臣のメディアへの露出が目立つ一方、「封じ込め対策から早く政策転換すべきだ」と内外から批判が出るなど問題点が明るみに出てきた。 

 日本では諸外国では行われない「機内検疫」を実施。新型を疑われた例を舛添大臣自ら次々に発表するなど極めて異例の対応を取った。WHO(世界保健機関)は、検疫に感染症の拡がりを減らす効果は認められない、との見解を5月7日にあらためて発し、国際交通に影響を及ぼす方策を採る国は、その理由と証拠を提出するよう求めた。

  厚労省の膨大な情報発信もあり、過剰反応も相次いだ。教育委員会の中には、生徒や家族がメキシコや米国、韓国を訪問した場合は、帰国後10日間、学校を休ませるなどの例が続出。日本初の感染者が出た高校には「なぜ旅行先でマスクをしなかったのか」など批判の電話や手紙が殺到した。米国、カナダなどでは「マスクは効果が薄い」が常識であり、過信はかえって危険なのだ。

  アジア各国では冷静な対策が取られた。香港では、発熱や渡航先などを調べる質問票を基に検疫官からの質問はあったが、予防法を記した文書が配られ早期治療をPRする放送が繰り返されたほか、手洗いや洗口器具が特設された。韓国やタイ、スリランカ、UAEでは通常と同様の対応で、トップニュースなどでの報道はされたが、日本のように通常の番組や記事を差し替えてまでの展開はなかった。

  ウイルスは姿を変化させて人間に脅威を及ぼす。今後、病原性が高まったり、別のH5N1などが流行したりする可能性が高い。感染症の専門家は「効果の薄い水際対策に躍起になった日本政府のパニックぶりは問題だ。致死率の高い本当の『新型』などの感染症には対応できない」と話す。  早期の発見・治療が重要で、病気にならない健康づくりが重要なのは感染症に限ったことではない。厚労省は感染症外来を整備しているとするが、これは安上がりだが不十分な対策だ。強力に推し進めた医療費抑制政策の影響で、医師や看護師が不足する「医療崩壊」に至った現状では、感染症への対応は困難だ。

  新たな感染症の発生は今後も続く。不採算を理由に廃止を進めた公的病院を復活させる必要がある。感染者らを隔離するにしても期間を不必要に長くせず、発生した損害は一定額補償する制度を確立すべきだ。また、今後は予防と早期治療を確実に行い、妊産婦や乳幼児、糖尿病・高血圧などの病気を持つ人の体調管理を徹底すべきだろう。

  専門家は「今回の新型は毒性、病原性は低く、感染力は従来型と同程度。伝播性は強い」と見るが、こうした用語を正確に理解する報道は少ない。情報量が多ければ良いというものではない。

  過剰反応や無関心を防ぐべく、背景を含めた解説記事を充実させる必要がある。 (運営委員)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年5月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その9

写真家でもあったアーティスト・マンレイ

畑 泰彦

 
 



「写真家のマンレイは画家でもあったのですか」とよく言われたマンレイ。
「私はずっと絵を描いている。ニューヨークのちゃんとした画廊をいっぱいにできるだけの作品がある。しかし、近代美術館の関係者をはじめとして偏狭なアメリカ人は、私のアトリエを訪れて絵を見た後も、私のことを写真家としか見てない」と嘆いている。
 今では写真はアートたりえると思っているが、実は私もご多分にもれず、しかも長い間カメラマン、イコール、アーティストではなく、したがってマンレイは、ただの写真家と思っていた。

 ここで、「アートとは」という問題になるのだが、表現されている内容そのものが、それを決めるのであり、キャンバスに描かれているからとか絵の具を使うとか石膏とか、ブロンズでできているということとはアートとは無関係なのである。そういう外的なものでなく箱の中や家の中のように人が、もちろん精神がであるが、その中に、はいれる空間を持つもの、しかも「多くの人が共通に、なにかを感じるものがそこに在る」ことであり、写真で言えば「写真であるが、写真でないなにか」を持つものが「その写真がアート」であると言える。
 写真は近代のものであり歴史のないものと思われがちだが、それはプリント(フイルム、印画紙)についてであり、ルネッサンスの画家たちに使用された道具もフィルムなしのカメラの一種でありそれによって遠近法が作りだされ、あのフェルメールは、フィルムなしのカメラの一種を利用してその映る画面を見ながら絵を描いていた。フェルメールの絵画というのはある意味での手書き写真であった。水に映る自分の姿に魅せられて水死するナルシスの神話に、水面=鏡面=映る道具として、写真としての起源をギリシャ時代にみる人もある。ちなみにPhotographという英語は光で描くという意味をもつ。

 今では写真がアートではないという人は少なくなったと思うがマンレイの若いころの社会では、まだアートの範疇になく、実際マンレイ自身も写真はアートではないと思っていた節がある。「写真は芸術ではない」という写真集をも出している。
 皮肉にも彼の最も有名な作品「アングルのバイオリン」(図版1)はパリで結婚した「モンパルナスのキキ」とよばれていた女性のカラダをバイオリンに見立てた写真であるし、(有名なアングルのトルコ風呂という絵をモチーフにしたもので、アングルはバイオリンを趣味としていて、題名には下手の横好きの意味もある)もう一方ではメトロノームの振り子に魅惑的な目の写真がついていて、それが動くオブジェで美術の教科書にのっていたので、記憶にある人もあるとおもう。

 そういう意味では写真を使って人々に写真で新しい表現ができるということを示し、アーティストとしてカメラを絵筆に取って代えた最初の人だったのである。
 19世紀の半ばに「印象主義」という新しい芸術運動があり、その流れの中からそれをも壊す「ダダイズム」運動が20世紀初めにおこります。いわゆる写真の切り抜きを使ったコラージュというものが世にでだしたのも、そのころからです。

 そして1920年代、ヘーゲルの哲学、フロイトの深層心理学、アポリネールの詩法、キリコの画風などのもとに意識下の世界や不合理、非現実の世界を探求し、既成の美学、道徳とは無関係に内的なものを表現する運動―広辞苑より―が文学・音楽・美術の世界で盛んになります。いわゆるシュールレアリズムです。

 マンレイ=MANRAY(人・光) ニューヨークで本名エマニュエル・ラドニッキーの一家はユダヤ人居住区を避けて暮らしており、マニーの愛称でよばれていたが差別を受けやすい名前を変えて姓のほうも「レイ」を用いるようになる。14歳で高校入学し、製図、工学、レタリングなどを習っていたが、まもなく美術に熱中。エマニュエルは成績がよく1908年に卒業するとき大学で建築を学ぶための奨学金を約束されていたが、それを辞退して絵画に打ち込む決意をした。
 やがてニューヨークの「291」画廊でのセザンヌ展、ピカソ展の影響のもとに「291」画廊に足しげく出入りするようになる。その画廊は写真家のスティーグリッツが開設しヨーロッパの印象派、キュビズムからダダイズムにいたるまで新芸術の展覧と紹介を続けていた。写真家としてもスティーグリッツは新しい表現をして大きな影響を及ぼしつつあった。マンレイは彼の展覧会を見て写真をひとつの表現手段として意識しはじめた。
 マンレイは十代のころからパリに行きたいと言っていた。なぜかと聞くと「アートのためさ」と妹に答えたという。最初の妻と別れたこともあり31歳のとき過去を捨てて、新たな自分を求めて、あこがれのパリに向かった。先に戻っていたマルセル・デュシャンにジャン・コクトーやダダ運動の作家たちに紹介されパリでの作家活動が始まった。
 マンレイは自分の絵画作品を記録するために写真を撮っていた。パリ、モンパルナスでの作家、詩人たちとの付き合いの中で肖像写真を撮り、それが評判になり生活の糧を得るためにも写真スタジオをモンパルナスに設けアーティストたちの肖像を収めた。ジャン・コクトー、アンドレ・ブルトンなど同時代のほとんどすべての作家、作曲家、芸術家たちの肖像写真を撮ることになった。
 当然パリのオートクチュールのデザイナーの目につき「これまでとは違う」モード写真を撮ってほしいと頼まれることになり、以来、モード写真家としてア・ラ・モード(時流にのった)写真家として「マンレイ」スタイルの写真が誕生した。マンレイがモード写真を撮るとそれは芸術になった。パリのファッション界の女王となるココ・シャネルやそのライバルたちもコレクションの撮影をマンレイに頼んだ。いうまでもなくココ・シャネルやライバルたちも自分の肖像写真を注文した。
「私は写真に撮れないものを絵に描く。絵にかけないものを写真に撮る。見えないものを絵に描く。見えるものを写真に撮る。」「写真はまずなによりも光をいわば録音録画するものである。」カメラもネガフィルムも使わず感光紙に直接、ものの影をあて定着させる表現をみつけ「光に耳をかたむける人、マンレイ」と言われた。ソラリゼーションという写真の方法を見つけたのもマンレイであった。

 初めに書いたようにマンレイは写真家ではなしに芸術家でありたいと願っていたが、作っていた油絵やオブジェがいつもわずかしか売れず、写真の仕事で生活費を稼がざるを得なかった。今では写真のプリントの性能が高まり100年以上の寿命を持つものがあると聞く。だからプリント写真もアート市場に参加する。アート市場に出回る条件には何年もの間、壊れない、色あせない、ことが一つの必要条件であるから、名だたるアーティストはそういうことにも気を使う。ピカソなどはパピエコレといって今で言うコラージュの方法で写真や新聞、楽譜などを貼付けラフスケッチを作り、それをキャンバス上に油絵の具で再構築していた。いわゆるキュビズム時代のピカソがそうである。
 マンレイの作品について言えば油絵よりも写真やコラージュにその真骨頂があると思う。なぜならそれらにはマンレイの表現の自由が遺憾なく示されているし、だれもがマンレイのようにあらゆる表現方式を使って芸術家になれる、芸術を楽しめる可能性を示しているから。(2009.05.26)

<Man Ray 関連サイト>
Man Ray Trust
http://www.manraytrust.com/
Man Ray-photo.com
http://www.manray-photo.com/catalog/index.php
J.ポール・ゲッティ美術館
http://www.getty.edu/art/gettyguide/artMakerDetails?maker=2036&page=1
メトロポリタン美術館
http://www.metmuseum.org/toah/hd/phsr/ho_2005.100.141.htm
ギャラリー「ときの忘れ物」(青山)
http://www.tokinowasuremono.com/artist-b58-ray/index.html
<BOOKS>
amazon 美の20世紀〈11〉マン・レイ (美の20世紀 11) 
amazon マン・レイ自伝 セルフ・ポートレイト

 

 

 

 
 

<第32回放送フォーラム開催>

兵士の視点と国家の問題

――Nスペ、ETV特集制作者の思い――

 
 


 3月27日、NHKの現役プロデューサーを招いて第32回放送フォーラムが開催された。

 ゲストは、NHK番組制作局の塩田純氏。南京大虐殺の史実にも踏み込んだNHKスペシャル「日中戦争〜なぜ戦争は拡大したか〜」で、文化庁芸術祭テレビ部門大賞を受賞するなど活躍している。「こういう場で話すのは初めて」という塩田氏は、番組制作の秘話から現代史ドキュメンタリーにかける思いまで、40名を超える参加者を前に語りかけた。

 塩田氏はNHKスペシャル「日中戦争」(2006年8月放送)について、「一人の兵士がなぜ人をあやめてしまうのか、という一兵士の視点と、一発の砲弾がなぜあれほど大きな戦争に発展してしまったのかという構造的問題をちゃんと見てみたい」という思いで提案したという。小泉首相の靖国参拝問題が注目されていた当時、歴史認識が争点となっているテーマの番組は難しい状況だったとのこと。

 塩田氏と4人のディレクターは、「一次資料で裏付けられない情報は使わない」「これまで取材されたことのない証言者を見つける」ことを確認し調査を進めた。徹底した取材と緻密な編集で、番組は南京大虐殺の史実を描きだし、放送後、視聴者からたくさんの励ましの声が届いたという。

 昨年8月に放送されたETV特集「シリーズBC級戦犯(1)韓国・朝鮮人戦犯の悲劇」では、戦後60年を経て、やっと名誉回復を果たし語り始めた元戦犯たちを取材した。離ればなれになっていた元戦犯が再会する場面では、かつて日本兵として動員された老人が突然「君が代」を歌い始めるショットがある。軒先をとぼとぼと歩きながら、当時教え込まれた日本語の歌詞で……。「あるとき突然、封印していた記憶が噴出する瞬間がある。そういう瞬間に出会うすごさをスタッフ一同、体感した。ドキュメンタリーは記憶の掘り起こしであり、だからこそTVで記録する意味がある」。塩田氏は取材テープを初めて観たときの衝撃を振り返り、そう語った。

 NHKという大きな組織で番組を通していく難しさと、NHKだからこそ出来るという面と両方あると述べる塩田氏。かつて、政権寄りのスタンスだと指摘されていた海老沢会長や諸星理事がいたころは、「アメリカを批判したりイラク戦争を問題にしたりできない状況だった」という。

 それが変わり始めたのは、2005年。政治家の圧力で改変されたETV2001「戦争をどう裁くか 問われる戦時性暴力」の担当デスクが内部告発し、直後、海老沢会長は辞任に追い込まれた。NHK上層部が代わり、やっと作りたい番組を提案できる環境になってきたそうだ。「日本では現代史の史実が神話化されたり、夫婦愛の物語に流されてしまう傾向がある。特に加害者性とアジアの視点を欠いてしまいがちだ。メディアの力が衰退している今日、何が構造的問題でどういう背景があるのかしっかりと描いていきたい」、と締めくくった。

尾崎孝史(放送を語る会会員)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年4月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その8

「アール・ブリュット、ジャン・デュビュッフェそしてコブラ」 (その2)

中津川 浩章

 
 


 ジャン・デュビュッフェは初めての個展のあとスイスに旅行した際、精神病院でアール・ブリュットの作品を発見したといわれている。何故かスイスにはナチスによって退廃芸術の烙印を押されたこの種の作品がたくさん残っていたらしいのだ。これらの作品はすぐれた芸術かどうかということよりも、人間のドキュメントとしての価値があると判断されたからなのだろう。なにがさすがかはわからないけれど、さすがスイス。

 デュビュッフェはベルンのヴァルダウ精神病院でアントン・ミューラーとアドルフ・ヴェルフリの作品を発見する。彼は自身の芸術にとても近いもの、また彼の思想を反映するものとして宝の山を探し当てた気持ちだったろう。他の作家の様々な作品を収集してパリへもっていき、ルネ・ドルーアン画廊で展覧会を開いた。また、その見せ方もいわゆる美術館のような制度的な見せ方ではなく無秩序に並べ、展覧会も大成功をおさめることができた。

 アンドレ・マルロー、トリスタン・ツァラ、アンリ・ミショー、ホアン・ミロなどの知識人・芸術家が訪れ、アール・ブリュットを認めるか認めないかで激しい議論を生み出したといわれている。このあたりは現在でも同じような議論が起こるし、よく私も人にも聞かれたりするところだ。
収集した作品は複雑な経緯を経てスイスのローザンヌ市に寄贈された。ここはジャン・デュビュッフェの反制度的な考え方を反映し、美術館という名前は使わず、アール・ブリュットコレクションという名称になっている。

 実は私も1989年にヨーロッパで2か月ほど様々なアートをめぐる旅をしていたのだが、ポール・クレーとフェルディナンド・ホドラーを見るためにベルン美術館を訪れたことがある。ベルンはP・クレーの生まれ故郷ということもあり、素晴らしい作品に出会えるだろう予感にドキドキしながら入館したのを憶えている。クレーはやっぱり繊細で美しいなあ、とかF・ホドラーは世紀末的なビジョンが強いなあ、なんて感じながら美術館奥の展示室に入ってうろたえた。

 なにやら紙に色鉛筆と鉛筆で細かく書き込んだ曼陀羅のような楽譜のような、奇妙な作品がたくさん展示されていたのだ。一般的に絵画と呼んでいいのかわからないが、まさしくそれは絵画だった。自由で独創的で強く繊細で偏執的、それが私にとって初めてのアール・ブリュットの衝撃、アドルフ・ヴェルフリとの出会いだった。

 あまりの不意打ちだったため、頭の整理もできず、すごいものを見たが、何だかよくわからないまま外にでた。すっかりクレーとホドラーのことは頭の中から消えていた。不思議な絵だ、これは何なんだろう、という気持ちで会場にあった一枚の資料を持って帰り、得意ではない英語を懸命に読んだ。「わたしはわたしの王国の王様だ。」みたいなことが書いてあった記憶があるが定かではない。「なんだ、これは」読んだところでやはりわからなかった。どんな背景をもったアーティストなのかは不明のままだったが、そのヴィジュアルイメージと名前はしっかりと私の脳に刻まれた。学生時代にデュビュッフェに影響を受け制作していたこともあったので、アール・ブリュットという概念と作品のイメージは持っていたつもりだったが、不意打ちの実物はやはり衝撃があった。

 日本に帰国してイエナという今はなき画集を扱う洋書屋さんで偶然アドルフ・ヴェルフリの画集を見つけ購入した。実はその時点でもA・ヴェルフリが分裂病をもつアーティストだとは知らなかった。今だったら、PCで検索すれば情報がすぐ引き出すことができるのだが、当時はそんなことは不可能で、A・ヴェルフリはしばらくの間は私にとって謎のアーティストだった。

 1993年に「パラレル・ヴィジョン」展が世田谷美術館で開かれた。この展覧会はロサンゼルスを皮切りにマドリッド・バーゼルそして東京と世界を巡回した大掛かりな展覧会で、アウトサイダーアートがいかにインサイダーアート(?)に影響を与えたかというようなコンセプトで、やマックス・エルンストからヘンリー・ダーガー、ヨハン・ハウザーまで多様な作品を展示した展覧会だった。この展覧会で初めて私の目の前にアール・ブリュットの全様が現れたのだ。そこにはアドルフ・ヴェルフリの作品も展示されていた。そこで初めて彼が精神に障害を持ったアーティストだということを知った。

 ヴェルフリは9歳で孤児に。小学校卒で下層社会を重労働業で点々としながら、1895年、41歳の時、3歳半も少女に対する強制猥褻行為の廉で逮捕。責任能力検査の結果、分裂病の診断を受けて、ベルン郊外の精神病院に永生監置された。

 その後、1899年から約30年間、1930年に癌で没するまで、2万頁44冊の、物語・詩・数式・楽曲からなる本を書き、1400点以上の色鉛筆画を描き、11500点のコラージュを制作した。 
 ヴェルフリの他にも様々アウトサイダーの巨人たち、アウグスト・バッラ、ヨハン・ハウザー、ルイ・ステー、ヘンリー・ダーガー、ミッシェル・ネジャー、ガストン・シェサックなどが展示されインサイダーアーティストもM・エルンスト、P・クレー、サルバドール・ダリなど多数、勿論J・デュビュッフェも展示されていた。そしてここでもほとんどのインサイダーアート(いわゆるプロフェッショナル)の作品が弱々しく、知性的すぎてみすぼらしく見えてきたことにショックを受けた。

 しかし、展示されていたインサイダーアートの中から以前から興味を持っていたアーティストをたくさん発見した。たとえば、A・レイナー、G・バゼリッツ、A・アルトー、F・S・ゾネンシュターンなどだ。
 たとえばA・レイナーは精神病院に泊り込んでY・ハウザーと制作を共にしようとしたり、二人展を熱望しながら断られていたりしていたエピソードを持っているし、旧東ドイツ出身のG・バゼリッツは精神病患者のアートを研究しコレクターでもあった。さらにアントナン・アルトーはシュルレアリスムの詩人でありながら1938年から47年まで精神病院に収監され、そのときに描いたおびただしいドローイングがある。ゾンネンシュターンの経歴は逆に社会に認知されたはじめてのアウトサイダーというべきアーティストで、精神病院と外の世界いったりきたりして、奇妙な色鉛筆による絵画を制作し、シュルレアリスム運動を提唱したアンドレ・ブルトンに発見される,といった具合だ。

 このように、私がその時興味をもった、グッとくるアーティストも、ほとんどが実際にボーダーラインにいたり、深く影響をうけたりしいていることに改めて気付かされた。
 ボーダーラインって何だろう。たとえば、人間は自覚無く時にボーダーを越えてしまうこともある。逆にいわゆる精神障害、知的障害の人間もごくごく常識的な価値観や感覚の中で生きていることの方が多いのだ。ひとりの人間の中には色々な要素が存在する。

 現実的にはボーダーラインがはっきりしているというよりは、かなり曖昧でグレーゾーンがほとんどでないかと思う。
 そんなことは考えればわかるのだが、アートの文脈の中でアウトサイダー・インサイダーという線引きはほとんど意味のないカテゴライズなのだ。また、単に専門的な美術教育を受けなかっただけでアウトサイダーとしてカテゴライズされる事象もある。考えれば考えるほどアウトサイダーとインサイダーの違いがわからなくなる。

 社会にアピールする場合は戦略としてわかりやすいカテゴリーがあるほうがメディアも扱いやすい。一時的には有効なのだが、逆に線引きして見えなくなる要素が多く、またその見えなくなる要素が重要だっだりする。「精神や知的に障害があるからこんな絵になるのね」のような思考方法がそれだ。確かに障害はその重要な要素であるが、すべてではない。
 
 確かに、作品の中の表象されたものを読み取り、分析し、社会的意味に還元していくことがアートを見ること、考えることのひとつだが、すべてを社会的意味に還元することはできない。
繰り返しになってしまうが、現在、アウトサイダーアートはアートのひとつジャンルとして認識され、カテゴライズさている。言い換えれば、類型化され消費され、そこで認識が終わってしまっている。そこでは、障害者に対する神話化がおこなわれ、もてはやされる動きさえある。

 あらゆる事象がカテゴライズされ、情報として一般化されていくのは、アートに限らずどのジャンルでも同じだが、それでわかった気になってしまう傾向がある。でも、アートにおいて(アートに限らずですが)、実物を見ることは、テレビやウェブサイトなどのメディアで見ることとは随分違い、情報として受け取るもの以上に様々な感覚に触れられる。
 概念としてはわかっているつもりのことが、実物を見るとよくわからなくなることがある。情報として受け取っただけで、思考停止になることが怖いと感じる。
 本当の意味で重要なのはインサイダーだろうが、アウトサイダーだろうが、そこでどのような感覚が働き、問いかけがあり、作品が生まれてくるのかを考えることなんだと思う。

 作品にはある「わからなさ」が必ず存在している。

 ただ、私も人に説明する場合は名称があると分かりやすいため、ついつい使ってしまう。何とかならないものか。

 アール・ブリュットについて書きはじめたら、そもそもアール・ブリュット(アウトサイダーアート)という概念はないのだというおそろしい結論に達してしまった。困った。
 私はそんな時いつもヴァン・ゴッホのことを考える。ゴッホこそ画家として成功しようとしたことからわかるようにインサイドの人間だが、美術を学んだとはいえ、彼の行動や作品はアウトサイダーそのものだ。そして彼の絵画はそのようなカテゴリーを飛び越えていく本質的な力がある。まさしく芸術の力だ。そこにはカテゴリーがあまり意味を成さない。現実的にまったく無力だった人間の大きな力だ。

 障害を持ったりもたなかったり、正規の美術教育をうけてなくても、何か人に手渡したい感覚や、芸術の力を信じるのだったら誰もがアーティストになれるだろう。
 私は知的障害や精神障害を持った人たちのアートサポートをしているのですが、そんなことからもさらに日本のアール・ブリュット(便宜的に使います、とほほ)の現状を含め、具体的にどのような感覚が働き、作品が生まれてくるのかをさらに考え書く予定。また、コブラについても次回とします。

〒111−0053 東京都台東区浅草橋1−7−7 TEL/FAX:+81−3−3865−2211
マキイマサル ファインアーツ企画展 「工房集」と仲間たち展
http://www.makiimasaru.com/mmfa/exhibition/2009/0206/index.html


■中津川 浩章 Nakatsugawa Hiroaki HP

http://nakatsugawahiroaki.web.fc2.com/

 

 

 
 

<スポーツ9条の会>
企業の競技者使い捨て 派遣切りと根は同じ

学習会で大野晃氏

 
 


 「かつては戦争がスポーツを奪った。今は企業がスポーツを奪っている」
 東京大空襲の日の3月10日、東京・池袋のエコ豊島で開かれたスポーツ9条の会の学習会・意見交換会で講演した大野晃氏は、こう切り出した。
 「不況・貧困・格差のもとでのスポーツ=企業の社会的責任を問う」と題した講演は、派遣切りと企業の競技者支援打ち切りが似通っていることを証した。さらに歴史的経過をふまえ企業や国の責任を問う。
 大野氏の現状批判の根底には国民のスポーツする権利の確立がある。貧困・格差社会への反撃の根底に、文化的な生存権(憲法25条)の尊重があるように。

イベント依存と勝ち組の論理

 社員の福利厚生を目的とした企業スポーツは、80年代に大きく変わる。企業は冠大会を主催し、マスメディアがそれを中継する、広告宣伝としての企業スポーツが広まる。個人競技でも「陸上部」などの部を廃止し、特定の個人と契約することが一般的になる。人気や業績で、競技者間にも競技間にも格差が生まれ、競技団体もイベントに依存するようになる。
 問題はオリンピックに象徴されるスポーツの商業化にとどまらない。バブル崩壊後の日本の特殊事情として、サッカーに特化した自治体のプロスポーツ支援、Jリーグの創設があり、それがW杯招致へむけたスタジアム建設という公共投資を生む。大型イベントと公共投資志向は、再度の五輪、サッカーW杯計画などに引き継がれている。
 広告価値がある競技者や競技を「勝ち組」と考える新自由主義の論理の一方でスポーツは「土建国家」的政治とも近しい。

改革の可能性持つ大衆の関心

 また大学でも企業でも労務対策としてのスポーツ部が発展してきた風土で、労働組合などと競技者が連携する方向性はなかった。しかし、プロ野球球団の廃止が世論の反発にあい頓挫したように、大衆のスポーツへの関心と情熱はスポーツ改革の可能性を持っていると大野氏は指摘する。
 現実のゆがみを指摘する役割のマスメディアは、スポーツの商業主義利用を推進してきた。国民のスポーツする権利を確立し、競技者の人権を守る改革は、メディアには期待できない。
 大野氏は要求実現のための運動のセンターを新日本スポーツ連盟が担うべきだと主張。緊急の課題としては、競技者と所属企業との契約形態の実態調査を提唱した。
 企業のスポーツ支援打ち切りは、本業が危うくなり社会貢献事業から撤退したという図式ではとらえきれない。労働者と同様に競技者が使い捨てられている。(保坂義久)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年3月25日号より)

 

 

 
 

<緊急発言>
みんなが「遭難」してる時代――本当の自分を見せたかった

「遭難フリーター」監督 岩淵弘樹さん

 
 


◎PROFILE /1983年宮城県生まれ。東北芸術工科大学映像コース在学中に制作した『いのちについて』がショートショートフィルムフェスティバルアジア2004に入選。05年卒業後、埼玉県の工場で派遣社員として働く。その生活を記録した本作が、山形国際ドキュメンタリー映画祭2007ニュードックスジャパンに招待され、各地で上映が続く。

 派遣社員が自らの日常を撮影した映画として話題になった「遭難フリーター」。「生きづらい青春を不器用に走ろうとする一人の若者の姿を生々しく描き出す、東京を彷徨いながら綴られた遭難デイズ。それは、いま、一番リアルな青春映画だ」(解説より)。3月下旬の渋谷・ユーロスペースでの一般公開を控え、都内で派遣社員として働いている監督・主演の岩淵弘樹さんに、お話をうかがった。 (インタビュー=吉田悦子)

――作品を拝見して、社会問題を扱うというより、あくまでワタクシのストーリー、一人称の視点から社会を切り取った映画だと思いました。「遭難」というタイトルも新鮮でした。
岩淵 タイトルは、プロデューサーの土屋豊さん、アドバイザーの雨宮処凛さんと3人で相談して決めました。自分の場合、今の状況に、いつのまにか迷い込んじゃっている、どっちに進めばいいのかわからないという面で、まさに「遭難」だと思います。逆に「遭難」してない人っているの? ある意味、フリーターじゃなくてもみんな「遭難」してるんじゃないか、ということですね。
――仙台出身で山形の大学の映像学科に進み、地元の出版社に就職が決まっていたけれども、単位が足らずに留年して内定を取り消され、派遣労働者となったわけですね。
岩淵 その後、フリーターをやりながら大学を出て、なんとしても憧れの花の都・大東京に行きたかった(笑)。お金がなかったので、手っ取り早く働くため、派遣会社に登録して、平日は寮と工場を往復し、週末は東京に出て日雇い派遣で働きました。自分の姿を撮り始めて作品として完成させたのが2007年です。
 大学でセルフドキュメンタリーを撮っていた頃から、土屋さんと雨宮さんは知り合いなんですけど、「派遣社員が、自分の日常をカメラで撮ったら面白いんじゃない?」といわれて始めました。こういう作品に仕上げようという明確な意図や計画もなく、無自覚に撮り続けました。
 土屋さんや雨宮さんは、とても自覚的に行動している方たちですけど、僕は無自覚で、自分を撮ることで今できることを表現したいという感じです。ラストシーンに朝日が上るところを撮れば、未来に向けてのカタルシスというか、絵的によかったかなと、あとから思いました(笑)。
――手持ちのカメラで撮影した不安定な映像で、岩淵さんのナレーションとともに不安定な日常が淡々と綴られています。ワタクシ性と社会性との間を行き交いながら、自分をそのまま出したという感じで、不思議なつくり方だなと思いました。キヤノンの派遣請負の実態を追求するドキュメンタリーの社会派映画だと勝手に思い込んで身構えていたら、自分探しの青春ドキュメンタリーという感じで、肩透かしを食うかもしれません。岩淵さんは非正規労働者の集会やデモにも参加されていますね。
岩淵 はい。今みんなどんな問題意識を持っているのか、現状認識を確認する場でした。運動で訴えていることや活動を続けていくことの大切さは納得しますけれど、社会や政治を変えるために自分が主体的に動こうという気持ちは湧かなかった。現状を理解することでいっぱいいっぱいで、意思を持って伝えていこうという気にはならないですね。
――現状に対する反発や違和感とも違う?
岩淵 無気力なだけでしょうね(笑)。人間として、自分の人生に常に当事者として主体的に関わりたいという気持ちはあるけれど、声を挙げて世の中を変えようとは思わない。楽しくないんじゃないですか、社会を変えるとか、変わるということが。
――楽しくない?
岩淵 ええ。連帯なんてダサイと思いますし、ことばのイメージも時代とともに変わっていいのに、変わっていない。
 社会に問題があることはわかっているし、運動にも興味はあるんですけど、どうしても硬いイメージがあって、いっしょにやっていこうというところまで意識が届かない。デモで僕はシュプレヒコールはしないですね。原宿や渋谷の通りを練り歩く非日常的な感覚が気持ちよくて、そこに溶け込んでいることが楽しいのであって、何かを訴えようとは思わない。こうした感覚は普通だと思いますし、若い人たちの多くもそうだと思います。
――作品には、NHK番組に岩淵さんが派遣労働者として取材されたことも取り入れられて、取材する側に対する違和感もにじみ出ていた気がします。
岩淵 僕とディレクターとの関係ができたうえで撮影されたものなら、伝えたいように使っていただいてかまわないと思います。相手のディレクターの方に、あとで映画として使いますよといって僕も撮影しているわけです。でき上った作品を送ったところ、相手は「(自分映像に)ショックを受けて眠れなかった」と。映像として残るということは、かなり影響を及ぼすんだなあと思いました。僕自身、テレビの取材で不快な思いをしたということはないんですけど、モザイクがかかって放送された映像を見た親は、みじめさを強調された貧乏くさいつくりになっていたこともあって、そんな息子の姿を目にしてショックを受けたみたいです。
 最初は顔出しOKですと伝えていたのですけれど、そうなると、派遣先のキヤノンの許可を取るといわれました。会社にわかるのはまずいから、モザイクをかけてもらったんですけど、そうしたら、不幸な派遣労働者っていう一面的な見方になった。だから、自分が映画をつくることで、ほんとうの自分を見せたかった、ということがあるかもしれませんね。
――終わりに、夜通し東京を歩く印象的なシーンがありますね。出口が見つからないまま、このままどこに行くのか。でも受ける印象は不思議と暗くないないですね。
岩淵 あのあとすぐ映像を見返して、作品にまとまりそうだという手ごたえを感じました。僕自身は、フリーターという現状は、社会が悪いせいだけとは考えていないんです。もちろん30代になっても正社員として働けるように雇用が広がって、働き方がもっと柔軟になるといいと思っていますけれど。じゃあ誰が敵だとか、だれの責任だという話になると、あまり考えたくないし、わかりやすい図式の中で語りたくない。僕自身は、加害者でも被害者でもない。社会に生きる自分を出したかった。この作品は、すべてひっくるめて岩淵であり、これからも生きていくんだ、ということを言いたかった。こんな映画なら自分にもできると共感してもらえて、繋がる人たちが増えるとうれしいですね。

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年2月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その7

イェッペ・ハイン イメージを捨て外へ出よ

大川 祐

 
 


 私の好きな画廊の一つ、谷中にある、銭湯を改築した「SCAI THE BATHHOUSE」(スカイザバスハウス)へイェッペ・ハインを見に行って来た。
 ここの画廊はアクセスが楽しみで日暮里の駅の南口から古い小さな旅館や並木道のある墓地を通り抜け、ちょっと散歩気分を味わえる。目的地である画廊(外観は銭湯!)に着いてイェッペ・ハインの彫刻を見る、というか出会う。出会うと言ったのはハインの作品がじっと見るような鑑賞型ではなく体験型のアートだからだ。

 イェッペ・ハインは1974年生まれでデンマーク出身、数々のパブリックアートを発表している。
 作品形態はイメージ的には遊具のようなところがあり、造形された彫刻を見るというよりは頭と体で感じる作品だ。
 だが困ったことに最初私はその遊具性が理解出来ずというか体感出来ず画廊の中をうろうろしていた。そこで画廊にある過去の作品資料を一通り見て気分が落ち着いたところで、もう一度うろうろしてみた。
 しばらくすると私は天井から吊るされた円形の鏡の彫刻(両面が鏡になっているものが 三つ)が自然にゆっくり回っているのを見ながらしだいに意識が彫刻そのものから離れ、ふと周囲の様子を見ていることに気が付いた。私は周囲の様子のほうが作品のように感じられしばらくこの不思議な感覚に身を任せていた。その感覚に身を任せながら私は何が起きているのか考えてみた。

 まず頭の中に残っている残像である鏡に映った虚像は鏡がくるくると(ゆっくりと)回っているため固定した像を頭の中に結ばない。そのかわり順々に三つの鏡が周囲を映し出すため像が立体的になり私が立っている周囲を浮かび上がらせる。また鏡がゆっくり回転するため途中で鏡が線のようになり鏡を見ていた視線は鏡の向こうの現実空間へと行き虚構と現実が混じる。よって鏡に映る像は安定した虚像空間を生まず、平面性を失い三次元的になり現実空間と混ざり合うのである。私の意識が体験した鏡の彫刻から現実の展示空間への移行はそれを示している。

 そういえば遊具というものは静止したかに見える現実世界に身をおく固定した身体感覚を揺さぶることによって感じる遊びの世界だったのである。私はそこから急にイェッペ・ハインの世界に潜りこむことが出来るようになり、遊具と戯れるように、まるで遊園地のアトラクションを楽しむようになっていった。

 次に私を迎えてくれたのは鏡面仕上げのステンレスの幾何学的な彫刻である。三つまたに分かれ起立した鏡面仕上げのステンレスで出来た厚みのある四角い形があり、その三つまたの中心が円形にくり貫かれており中を通り抜けることが出来るようになっている。今度は何が起きるのだろう、と作家の主張に焦点を合わせるのではなくそこで起きる現象に注意を向けてみることにしてみた

 まず構造物のようなその外観は全面鏡面ステンレスで出来ているため三次元に彫刻が存在しているにも関わらず鏡面が虚構空間を作るため矛盾した感情を鑑賞者は抱いてしまう。私は何気なく、くり貫かれた穴を覗いて見た。アッと思った。私はそのくり貫かれた円形の向こう側に人が通る度に現実に居る人がまるで映像化されたイメージになってしまったのをそこに見たのである。何回見てもそう見えてしまう。実際に見ている風景であるにも関わらずどこか違う場所を見ている感覚ともいえるだろうか。

 またしてもこの不思議な現象を考えざるを得なくなった。先ほどの鏡は二次元の虚構から三次元の現実への移行であったが、ここでは彫刻が三次元(鑑賞者と同じ現実空間)であるのに彫刻の外観である鏡面は虚構(二次元的)であり、また鏡面を通してくり貫かれて居る円形は二次元的であるためそこから三次元で動く現実空間にいる人間が二次元化(虚構化)し、まるで動く映像を見ているような錯覚を引き起こすことになったのではないだろうか。

 ところがまた人が居なくなりくり貫かれた円だけを見ていると三つまたになっているところに円が跨っているため三次元的に見えてきて、ないはずの球をそこに見てしまうのである。いよいよ私の感覚が狂ってきたようである。

 今度は画廊に入った時から存在は気付いていたが何だろうと思っていた台座に乗った鏡面仕上げのステンレス球の作品である。直径が60センチくらいだろうか。マグネットの力でくるくる回っている。覗いて見るとなんだかまた不思議な気分になってきた。

 見ているステンレス球には私を含めた画廊の空間が映っている。それ自体はなんてことはない。しかしステンレス球が台座に接している点を中心にくるくる(今度は少し早い)回っているためステンレス球に映った虚像は動かないが現実に見えているステンレス球はくるくる回っているため現実空間と虚像の空間がここでも混ざり合うのだ。気分的にはなぞなぞをかけられている感じだ。

 これはステンレス球が鏡面でありながら球の軸を中心に回転しているため頭のイメージの中では輪郭の固定された虚像を認識しながらも現実空間のステンレス球は動いているために起こる認識の矛盾が起こっているのである。

 ここまで見てきたようにイェッペ・ハインの彫刻は従来の作家のようにイメージを対象物に表現するという形態を取らず、鑑賞者たちが作品と関わりながら対話し、そこで生まれる現象を鑑賞者が見つけアートを感じ取るというものである。彫刻は在るのに感じ取るものは形ではないのである。それは逆説的に我われがイメージを通して世界を見ていることに似てはいないだろうか。

 私はなぞなぞをかけられたまま画廊を後にして、もと来た散歩道を帰って行った。今回は画廊での展示であったが今度屋外で鏡面の作品が周りの景色を映しながら周りに人がいるようなスペースで体験してみたい。実際画廊でも周りに鑑賞者がいたほうがイェッペ・ハインの作品を理解しやすかったように思う。 私は鏡の作品を前にした時懸命に作家のイメージを探していたが、どこにも見当たらず作品に向き合うのを止めた時、急に目の前が開けたようになった体験を持った。

 虚構を探し続け、閉じられた答えを求めてしまう人間。しかし一歩外に出れば他者が存在し無限の世界が存在しているのである。イェッペ・ハインの目指すところは閉じたイメージを作らず、作品に他者を求め他者同士がコミュニケーションをし、無限へと広がっていく動きなのではないだろうか。

■イェッペ・ハイン Jeppe Hein展”Kuru Kuru”1月16日(金)から2月28日(土)まで
場所 SCAI THE BATHHOUSE

■SCAI THE BATHHOUSE
東京都台東区谷中6-1-23
tel 03-3821-1144
info@scaithebathehouse.com
http://www.scaithebathhouse.com

 

 

 
 

<オバマ新政権  アナログ放送延長か>
2011年・地デジ完全移行 日本も計画練り直しを

代表委員 隅井孝雄

 
 


 アメリカ、オバマ新政権が来月に迫ったデジタル放送への全面切り替えに待ったをかけ、アナログ放送を延長するよう議会に要請した。
 アメリカのテレビは2009年2月17日をもってアナログ放送を中止し、デジタルテレビに全面的に移行することになっているが、政権移行チームの共同議長ジョン・ポデスタ氏が「アナログ終了に伴う消費者へのサポートが不十分だ」として、1月9日、上下両院の通商委員会に対し延期を要請する手紙を送ったのである。
 アメリカのテレビ世帯は1億140万世帯だが、調査会社ニールセンによるとその6・8%、77万5千世帯が依然としてデジタルテレビを持っていないためアナログ休止でブラックアウト画面になる。さらに10%、1000万世帯は一台だけデジタルを入れたが、二台目、三台目テレビなどはアナログのままという状態が続いている。
 最も問題になっているのは、ケーブルにも衛星にもつながずに地上波電波だけでテレビを見ている低所得家庭、高齢者家庭、そして過疎地帯の家庭だ。政府はこうした家庭がデジタルコンバーターを購入できるよう、40ドルのクーポン券を配布していた。コンバーターの価格はおよそ50ドルから80ドル。必ずしもデジタル機能を発揮できるというわけではないのだが、ともかくも従来のテレビにつなげば絵が出る。15億4000万j(およそ1500億円)を用意したのだが、経済失速の影響もあって申請が殺到し、予算は底をついた。110万人がとり残され、その数は日を追って増える一方である。
 NBCやABCなどのテレビネットワークも延期には反対しないということなので、アナログ、デジタル同時放送が一定期間続きそうだ。
 日本はどうか。全面移行は2年半後の2011年7月だとはいうものの難問が山積している。デジタル受像機への買い替えはこのところの不況でがっくりと落ちた。普及は50%にとどまったままだ。1500万世帯以上あるとみられる共聴アンテナに頼る山間辺地や都市集合住宅はそのほぼ30%、500万世帯がデジタル共聴への移行が難しく、一挙にデジタル難民になる。
 衛星放送の空き周波数を使ってカバーする計画もあるが、それだと地元のローカルチャンネルは入らない。政府は生活保護世帯およそ200万世帯にチューナーを無料配布するというが、生活保護を受けられない貧困世帯はその4倍以上850万世帯という数字がある。
 生活のライフラインとして機能しているテレビ視聴がある日突然断たれるということは、社会の大問題といわざるを得ない。
 デジタル化は必要と思うが、テレビが見られないという事態を放置していいということではない。政府、NHK、民放は改めて真剣に計画を練り直すのが当然だ。
 それにしても、アメリカでの議会へ向けたポデスタ書簡は、誕生目前のオバマ新政権が、庶民の生活に目線を注いでいるあかしだと私は受け止めている。
 日本で庶民目線の政治に転換する日はいつ来るのだろうか。

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2009年1月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その6

「アール・ブリュット、ジャン・デュビュッフェそしてコブラ」 (その1)

中津川 浩章

 
 


 先日、滋賀県立近代美術館で開催されていたアール・ブリュットパリ・abcdコレクションより)を見にいった。たまたま、同時期に大阪で自分の個展を開いていたこと。また私が関わっている障害者施設「工房集」のアーティスト斉藤裕一の作品も展示されていること、さらにこれも偶然だが、美術館の担当学芸員が以前よくお世話になっていた友人だったいういくつかの要因もあり遠い滋賀まで出かけていった。

 それだけの偶然が重なったからには何かあるのかなとも思ったが、何事もなく普段のようにただ展覧会をじっくり見ただけだったのだ。そんなこともあり今回はアール・ブリュットについて書こうと決めた。ただ、それだけでは物足りないないので、アール・ブリュットという概念をつくった戦後フランスのアーティスト、ジャン・デュビュッフェそしてデュビュッフェから影響を受けた北欧のアートムーブメント・コブラについて書きたいと思う。

 アール・ブリュットとはジャン・デュビュッフェが命名しコレクションした美術品が始まりで、「生のままの芸術」「加工されてない芸術」という意味のフランス語だ。精神障害者や幻視者など、専門的な芸術教育を受けず、自らの内的な欲求に導かれて作品を生み出した人たちのアートを総称してこう呼んでいる(その代表的なアーティストについて、この「アート世界一周」で大川裕さんが以前論じたことがあります)。イギリスではアウトサイダーアートという言葉がほぼ同じ意味で使われている。
 また以前にも書いたが、このジャンルのアートのカテゴライズ・線引きはかなり曖昧で、ナイーブアート(素朴派)・プリミティブアート(原始芸術)と微妙に重なりながらも異なった意味で使われている。さらに最近の日本ではエイブルアート・ボーダーレスアート・ピュアアートとそれぞれの立ち位置と思惑によって命名されたりして、さらにややこしいことになっている。なってはいるが、美術史家ではない私達にとってはその概念定義はそれほど重要ではないと思う。とにかく生で強烈な「直感に基づく訓練なしの芸術」がアール・ブリュットだ。

 ジャン・デュビュッフェは1901年にフランスに生まれ、戦後フランス美術を代表するアーティスト。フランスでは20世紀前半はピカソ、後半はデュビュッフェといわれる程、重要な画家だ。ちょうどジャコメッティと同年代にあたる。ただ、その重要さはピカソの場合はその作品そのものが重要だが、デュビュッフェの場合は作品というより、彼の問いかけた問題の大きさと拡がり故だろう。その問いが顕在化したのが彼の作品や言葉、そして彼のコレクションから始まったアール・ブリュットの世界ということになる。

 デュビュッフェが本格的に画家としてスタートしたのは40代になってからとかなり遅い。それまで何度か画家を志すが途中で挫折している。ワイン商を営む実家の商売を継ぎ、経済的・現実的な状況が絵画制作を継続できなかったということがあるだろうが、私は、彼が表現しようとしたことと、その当時のアートの様式があまりに離れていて、うまく着地点を見出せなかった為ではないかと思う。

 P・ゴーギャンやV・ゴッホもそうだが、スタートの遅いアーティストはアートからアートが生まれるという類のアートの純粋培養ではなく、今まで生きてきた自分自身の現実や問題を自身の表現の核とするため、既成の枠に収まりにくい。だからこそ、魅力的でオリジナリティが強いアーティストが多い。美術の専門性では収まりきらない問題意識や現実に即した革命性が高ければ高い程、かたちとして成立することは遅くなるのだ。そしてそのことがそのままデュビュッフェに当てはまる。

 デュビュッフェの言葉を引こう。
 「本当の芸術、それはいつも私たちが予期しないところに在る。それは誰もそのことを考えず、誰もその名前を呼びもしないところにある。芸術は、自分の名前を知られたり、その名前のせいで歓迎されるのを嫌う。それはすぐに逃げ出してしまう。芸術とは、人に知られないでいることに熱中している人物なのだ。」

 「私個人としては、どんな分野であれ、例外的なものにはほとんど興味を持たない。平凡さこそ私の栄養である。俗であればあるほど、私は関心を引かれる。」

 「野原に一本の気があったとして、私はそれを自分の実験室に移して、顕微鏡で調べてみようとはするまい。葉をそよがせる風も、木を知るのに欠かせぬものであり、それらを分かつことができないと信じるからである。」

 「床屋で、消防夫や肉屋や配達人にまじって、かれらがおしゃべりしているのを見ていると、彼らの方がずっとその場にぴったりとしているという感じがした。・・中略・・・彼らの口調には楽しさと確信が満ちており、ねたみをおこさせるほどだった。そのうえさらに、彼らの脈絡のない話題には、精気がみなぎり、予期せぬことや発明に富み、要するに味わい深いものがあるような気がした。こういってしまってもよかろう。より芸術的であったと。・・そう、床屋の職人の話には、彼の生活、彼の頭の中には、何かの専門家より、はるかに多くの芸術と詩があるのだ。」

 彼の言葉には、特別なことではなく、今ここにあるむき出しの現実に対する肯定と賛美がある。専門性より一般性を、部分より全体を志功し、中心より周縁を、訓練された美術より生な線や色彩を強烈に求めている。専門性によって去勢され、飼いならされた文化にノンというメッセージを送っているのだ。

 デュビュッフェの具体的な作品はいうと、これらの言葉からもわかるように、彼が表現する世界は深遠な哲学的なテーマではなく、ごくごく普段の日常的・一般的な世界を描いているものがほとんどだ。たとえば、パテと油で塗り固め、さらに砂や土を混ぜ厚塗りして、物質性が強い画面を作り上げる。その分厚い画面に描かれるものはたんに地面や、街・友人・牛だったりして、特別社会的なテーマが選ばれているわけではない。
 このような砂や土を混ぜこむ方法はアッサンブラージュといい、雑多なものを寄せ集めてひとつの画面を作り上げていく技法で、彼の場合は砂や土ばかりでなく枯葉や時に蝶の羽までも表現の素材となっている。その素材の多くは画材屋さんで売っているような特別なものではなく、日常的で普通のものだ。要するに今までの美術の世界では必要とされなかったもの、忘れ去られていたものたちを基にして、世界を再構築するというきわめて哲学的なアプローチなのだ。
 これはいうまでもなく、第2次世界大戦後という、様々な価値観が崩壊した時代の哲学と重なるもので、先に書いた、専門性より一般性、部分より全体を志功し、中心より周縁という彼の思想ともピタリと一致する。そこが現在彼の作品を見ると、論理的整合性がありすぎて物足りない部分でもあるし、また技法的なことで言うならば、アッサンブラージュはいまや小学生の図工の授業でもおこなわれている装飾的な技法のひとつになっている。しかし、1950年代では極めて斬新で必要だった方法と哲学だ。

 もうひとつ魅力的なのは彼のドローイングだ。個人的にはいかにも作品ですといったタブローよりもこちらのドローングの方が好きだし普遍性があるように感じられる。落書きのような荒々しい線で人や街を描いていく、時に男女の性行為も彼のドローングの重要なモティーフとなる。そこにもかれ反ブルジョワ精神が、息づいていて気持ちがいい。デュビュッフェがいう精神障害者や幻視者たちの「直感に基づく訓練なしの芸術」であるアール・ブリュットに最も近い感覚が彼のドローイングだと感じる。

 ジャン・デュビュッフェはいつ、どのようにアール・ブリュットに出会ったのだろうか。
 アール・ブリュット、コブラについては次回に。

 お知らせです。
 私がキュレーションしている障害者施設の展覧会が東京浅草橋のマキイマサルファインアーツギャラリーで開催されます。
 会期は2月6日〜25日。日曜休廊 時間は11時から19時(最終日15時)
 14日はパーティとトークがあり私がおしゃべりする予定です。是非ご高覧下さい。

〒111−0053 東京都台東区浅草橋1−7−7 TEL/FAX:+81−3−3865−2211
マキイマサル ファインアーツ企画展 「工房集」と仲間たち展
http://www.makiimasaru.com/mmfa/exhibition/2009/0206/index.html


■中津川 浩章 Nakatsugawa Hiroaki HP

http://nakatsugawahiroaki.web.fc2.com/

 

 

 
 

<NHK経営委を視聴者の手に>
限りなく不透明な選考の基準・過程

都内でシンポジウム

 
 


「政府、財界主導のNHK経営委員会を視聴者の手に取り戻そう」と、2008年11月22日、都内でシンポジウムが開かれた。前日の参議院で4名の政府推薦候補のうち3名が不同意となった事態を受け、80名を超える市民が参加して活発な討論が行われた。

「政府推薦候補が拒否されたことは我々の運動の成果だ。非常な高揚感をもってこの集会を開くことができる」。主催者を代表して東京大学教授の醍醐聰氏はこのようにあいさつした。
 基調講演に立った元立命館大学教授松田浩氏は、次期経営計画に対し「受信料10%値下げ」を強引に盛り込んで議決した経営委員会を強く批判。背景には政府が目論む支払い義務制の意図が隠されている、と指摘した。

 シンポジウムの司会は、ジャーナリストの野中章弘氏。NHK経営委員を二期務めた国立音楽大学名誉教授の小林緑氏は、自身への就任要請について、「総務省のデータベースでヒットして候補に挙げられたらしい」とエピソードを紹介。デジタル放送への移行について、その弊害を話題にしようとしたところ、「デジタル化は既に決定していることですので」と事務方から釘をさされ驚いたとのこと。「経営委員の選ばれる過程を透明に。視聴者からの公募にして草の根の主婦などを含めてはどうか」と提言した。

 メディア総合研究所所長の須藤春夫氏は、視聴者の側からの公募制要求や推薦候補を出すなどの運動が「開かれたNHK」にしてゆくために必要だと強調した。先行経験のあるBBCについては、公募制をとってはいるが担当大臣の意向が強く働く仕組みになっており、選考のプロセス・基準を明らかにする必要があることなどが報告された。

 元NHKディレクターの戸崎賢二氏は、受信料値下げの圧力に対し制作現場では、「値下げするなら番組経費に回して欲しい」との声が上がるほど、予算が圧縮されている実態を紹介、経営委員には企業経営者ばかりでなくジャーナリストやアーティストが加えられるべきだと提案した。

 会場からは兵庫、京都、大阪の市民が活動を報告。地域から出ている経営委員に視聴者の声を届ける、NHKの地方放送局と定期的に懇談会を開催する、などの経験が紹介された。「全国の都道府県に視聴者団体を作ってNHKに働きかけよう」との発言には多くの賛同が寄せられた。集会は、会推薦の経営委員候補・桂敬一氏、湯山哲守氏への賛同署名をいっそう広げることを呼びかけて終了した。会が取り組んだ「NHK経営委員の公募・推薦制と古森重隆氏の不再任を求める申し入れ」署名は一万5千ほどに達した。(尾崎孝史)

桂敬一氏 1935年生まれ。マスコミ研究者。郵政省メディア・ソフト研究会メディア・ルール委員会委員長、テレビ朝日番組審議会委員長。 
湯山哲守氏 1944年生まれ。物理学研究者。京都大学博士(理学) NHK問題京都連絡会世話人。07年2月からNHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表。

◎開かれたNHK経営委員会をめざす会(世話人代表:松田浩 桂敬一 野中章弘) 構成団体=NHK問題京都連絡会、NHK問題を考える会(兵庫)NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ、日本ジャーナリスト会議、放送を語る会



「経営委員会の抜本改革を」
各地で急速に運動広がる


 政府・財界寄りの色彩が強いNHK経営委員会の抜本的な改革をめざす運動が、各地で広がりを見せている。
 当初12月に予定されていた経営委員人事を機に、委員の公募・推薦制の採用と、委員長として不適格な古森氏の不再任を求めて、視聴者を中心に始まった署名は、この2カ月間で1万5000人を超える盛り上がりを見せた。
 こうした動きの影響もあって、総務省が11月、国会に提出した経営委員4人の人事案は、参院野党の反対で1人を除き不同意という結果に終わった。
 この運動の盛り上がりの背景には、10月に、各地の視聴者団体や放送を語る会、日本ジャーナリスト会議など6団体と有識者による「開かれたNHK経営委員会をめざす会」が結成されたこと。さらに「めざす会」が、桂敬一、湯山哲守両氏を経営委員候補として推薦し、強力に運動を進めていることも大いに与っている。
 両氏の推薦には、これまでに600人を超える賛同者があり、この中には川口幹夫元会長らNHKのOBをはじめ、奥平康弘氏、原寿雄氏、内橋克人氏ら各界の著名人が名を連ねている。また、近畿など各地で、今回の運動を契機にNHK問題に取り組む組織作りの機運も出ている。
 本来、NHKの権力からの自立を保障すべき立場にある経営委員会の人事を、与党・総務省・財界が密室で決める仕組みは、公共放送の主権者である視聴者の立場から見て、本末転倒だといわざるを得ない。
 視聴者・市民に真に開かれた経営委員会を実現するために、「めざす会」をはじめ、各地の視聴者団体や言論界など多様な人々が、どう力を合わせることができるか、真剣かつ緊急な論議が今求められている。

石井長世

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年12月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その5

『 ソウルで見た犬』 フランシスベーコンについて

中津川 浩章

 
 


 昨年末にソウルにいってきた。観光でいろいろほっつき歩き、サムソンが新しく作ったリウム美術館などをみてきた。7年ぶりのソウルは、表面はきれいになって東京みたいだったが、やはり韓国のどこかディープな感覚に浸って生き返った。

 ソウルの京東市場をぶらぶらしていたら、檻に入れられている犬をみつけた。なんだか妙な感じがした。よくよくまわりを見てみると生肉がごろりと並んでいる。犬肉の専門店だった。檻に入れられていた犬は食用の犬で、これから屠殺されるであろう存在だったのだ。どうりで妙にぶよぶよしていて大きく、生命感が希薄な訳だ。最近はペットとしての犬しか見ていなかったので、その食用犬の外観に少なからずショックを覚えた。そのショックはきわめて視覚的なもので、道徳的なものではない。

 その店を通り過ぎ、しばらくして画家のフランシス・ベーコンの作品や言葉がよみがえってきた。これから屠殺場に引き出されようとしている動物について、ベーコンは「死の臭いがして、屠殺場と肉に心をうごかされていた。そしてそのイメージは私にとってキリスト磔刑と分かち難いものだ。」また、「われわれは肉であり、いつかは死体になるわけだ。肉屋の店にはいると、そこにいるのは私ではないのが驚くべきことだといつも思ってしまう。」
 
 今回はそんな「肉としての存在」、人間の実存的不安を表現したと言われている画家のフランシス・ベーコンについて感じるままに書いてみたい。
 第二次大戦後アートのメインストリームはヨーロッパからアメリカに移り、ニューヨークで生まれた抽象表現主義とよばれた新しい抽象絵画のスタイルが世界のアートシーンを席捲した。F・ベ‐コンはそんな時代の流れに関係なく、既に終わったとされていた具象画、それもヨーロッパの伝統である肖像画を主に描き続けた画家だ。
 ただ、驚くべきはその内容というか、表現されたものと方法だ。文学的に表現すれば、多くのベーコンについての解説にあるように「声なき人間の叫び」「人間存在の根本にある不安」を描きだした。その歪み、激しく変形され、口を開け、叫ぶ人間の肖像はグロテスクで、確かに見るものを不安にさせる。
 そしてその人物を表現する方法は、細かい部分を描き込んでいく説明的な写実ではなく、大きな刷毛をざっくりと使い描き、直接見る人間の想像力に訴えかけてくる方法だ。
 また、絵具を手に持って描きかけのキャンバスに投げつけ、絵具の盛り上がりなどの物質感やとびちりの形からイマジネーションを得て、官能的な形態をつくりあげている。
 また、生身のモデルではなく写真を使い独特の写真論でも知られている。さらにフランスの現代思想家G・ドゥルーズが「F・ベーコン」で論じているように、その色彩のもつヴァリエーションと拡がり、官能性もベーコン自ら語っている「神経組織に忠実な絵画」をつくりあげている重要な要素だ。

 そうなんだ、ベーコンの作品のまわりをくるくる回る言説ではなく、この「神経系統に忠実な絵画」とは何だろうっていうのが学生時代からベーコンについて考えてきたことだったんだ。

 ベーコンの絵画を見ると視覚ではなく確かに神経がなにやらざわざわし、こっちまで叫び出したい感情に駆られる。先に書いたように人間が歪み、叫び、絵具が厚みを持ち、べったりとキャンバスについている。その絵具が単なる物質ではなくイメージそのもの、生きている何かに感じられてくる。それが解釈ではなく直接こちらの神経に入ってくる感覚。薄いキャンバスに絵具がのっているに過ぎないものが、深さをもって立ち現われてくる不思議さ。これがアートとしての絵画の魅力なのだが、そのなかでもベ‐コンの作品の深さは、より深く私の何かを揺さぶるのだ。何かの極限、恐怖、不安、残酷、そんな説明的な言葉がでてくるが、もっと違う何か。しいて言うならば生きている人間そのものに、時として感じる感覚そのものに近い。
 
 生きている人間が目の前にいる、一定の容量と物質を持ち、存在そのものとして生きている。そこに解釈や説明はその存在から遠いものだ。肉としての人間が立ち現れ、まさに神経組織に入ってくる感覚。
 つまり日常では既に知っている世界に生きていて、その中では感覚は閉じられている。たとえば、風邪をひいたり、切実な何かを失ったりすると、いつもの身の回りの風景や人がぐんにゃり歪んだり、あれ、この人こんな顔してたっけていうように、普段とは異なった様相を帯びることがある。そんな感覚がベーコンの絵をみるとよみがえってくる。私の絵画からも、よく暴力を感じるといわれるが、暴力を感じさせる何かが作品の中にはいってこないと絵画が開いていかないのだ。

 言いかえれば、作品を見る人を、暴力を通じ、通路を作り、開かせたいという感覚があるからなのだ。そんなところもベーコンの作品に惹かれる理由だろう。特に現代日本では幾重にもはりめぐらされた真綿のバリアーが私たちを覆って、擬似的なヒューマニズムや民族観が共同幻想をつくりあげている。しかしその真綿のバリアーを剥いでみれば、そこには恐怖や残酷、不安などベーコン的人間の要素が多く存在している。そしてその存在の残酷さにしっかりと手が届いているアーティストがフランシス・ベーコンなのだ。
 
 再びベ‐コンの言葉を引こう「人は希望が全然なくても楽天的になれるんですよ。人間の基本的な性格は全く持って希望を欠いていますが、人間の神経組織は楽天的な素材でできているんです。」
 
 彼には強烈な毒素とある種の退廃がある。そして、彼の作品の魅力は倫理的なもの、社会変革的な理念ではなく、彼の感覚、神経系統に忠実であろうとする自らの欲望に忠実なだけなのだ。

 私がソウルで出会った犬はリアルな世界だったのだ。

 

■中津川 浩章 Nakatsugawa Hiroaki HP
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<緊急発言>
 立教大学准教授 砂川浩慶さん

地デジ問題 残り8千万台は切り替え困難 
一局あたりのコスト約60億円 このままデジタル化は大混乱

 
 

 
 2011年7月に予定されている地上波テレビのデジタル完全移行。現在のアナログ受信機は映らなくなり、デジタルテレビへの買い替えが必要だ。受信機を買い、数万円のアンテナを設置する負担を視聴者に強いるこの地上波デジタル(地デジ)は、放送局や社会に何をもたらすのか。民放連時代、デジタル化を担当してきた砂川浩慶・立教大学准教授を、tvk(テレビ神奈川)の伊東良平氏と共に訪れた。

―2011年7月に間に合うでしょうか。

  全てのテレビがアナログからデジタルに置き替わるのは絶望的です。テレビ台数の正確な統計はありませんが、1億2千万台のテレビ受信機があるといわれています。デジタルテレビの普及は現在およそ4千万台です。ただこれはDVDやケーブルテレビ用のデジタルチューナーを含めた数字です。それを考慮せず単純に考えても、残りは8千万台。1年にテレビの買い替え需要は1千万台程度ですから、全部がデジタルテレビになるのに8年かかる。北京オリンピック前の今年7月に需要は増えましたが、それでも対前月比は122%です。そこから類推すれば、テレビの売り上げが年に1000万台から1200万台になることはあっても、それ以上にはなりそうもない。 
 電波を送り出す、放送局側の準備は間に合うでしょう。集合住宅の共聴アンテナの更新になかなか同意が得られないなどの問題はありますが、一番のネックは受信機の普及です。 
 11年7月という日付は、01年の電波法改正の施行から10年、アナログ免許の返還期限が10年後というだけです。アナログテレビがまだ何百万台も残っているというところで打ち切るのは大問題です。かといってこれだけ大宣伝して移行を延期すると、買った人は「騙されてデジタルテレビを買わされた」と思うかもしれない。 
 電機メーカーは年1000万台の需要を超えて、8000万台を3年で供給するのでは過剰投資になるので、2011年にはこだわっていません。
  NHKの受信料の徴収ベースは世帯です。デジタルテレビは3年後に5000万世帯ほどには普及するでしょう。2011年でアナログ放送を打ち切っても、受信料ベースは確保されているから、経営的には問題ない。
  ですから、民放が一番困る。1億2000万台をベースに広告出稿してきたのが、8000万台の受像機しか映らないとなれば、広告主は広告費の値引きを要求するでしょう。
  ところが、それならば1億2000万台普及するまで切り替えを延期すると、こんどはアナログ送出の機材がもたない。放送局の設備はオーダーメードが多い。もう放送局のアナログ用の機械はない。放送局はどこも、だましだまし今の機械を使っている現状です。アナログ停波を何年も延ばすわけにはいかない。
  おそらく来年の暮れまでに、アナログを打ち切るかどうかを判断しなければならなくなると思います。
 
―延期するとすればどれぐらいですか。

  再免許の2013年が一つの目安です。デジタルで制作した番組を一度、アナログにして放送し、アナログ放送は打ち切らないほうが現実的でしょう。
  民放テレビ局は全国で127社です。キー局、準キー局を除いた地方局に国の予算をつけて放送局の設備を長持ちさせるほうが、受信機を低所得世帯に無料配布するより額が少なくてすみます。  国がデジタルチューナーを配ろうとしているのは、NHKの視聴料が減免されている世帯だけ。それではワーキングプア層には届きません。 

―デジタル化のマイナス面は? 

 地デジのコストは一局平均60億円といわれています。これは地域によって差があります。北海道や岩手県のように広いところ、長崎県のように離島の多いところは、中継局を多く建てなければならない。中継局の数は、共同化などで減らしましたが、建設コストは安くできません。
  従って、地デジは普通の株式会社ではありえない投資です。年間売り上げを超える投資をして、そのリターンは一切ないのですから。
  デジタル化の費用を出すために、番組開発、番組制作にお金が回らなくなる。デジタル化が破綻することはないけれど、デジタル化が終わってみたら、番組がチープになっていたということになりかねません。
  テレビ局の経営もよくない。テレビ広告はその時代、時代の新しい産業が牽引してきましたが、今はそれがない。今年の10月改変でもタイムスポンサーをつけるのが大変でした。
  売り上げの落ちる中、デジタル化コストがかさみ労働条件も悪化しています。放送現場の中に異なる賃金体系が混在して、現場の志気も落ちている。
  もう一つ懸念されるのは災害時です。デジタル技術では一度データを圧縮してから解凍します。それに伴う遅れが出る。NHKの時報の時計画面が出なくなったでしょう。あれはデジタル化したからです。7時がどこでも同時に7時ではない。東京と鹿児島では4秒ぐらい差が出ます。
  緊急受信速報のような場合、アナログでは9秒前に届くところが5秒前になってしまう。
  放送はライフラインです。災害を考えれば、アナログ受信機がまだ何百万台も利用されているときに、それを停波してデジタルに切り替えるわけにはいきません。
 
―なぜデジタル化したのでしょう。
 
 伝送効率がよくて、他のメディアとも親和性が高い方式に替えようということです。技術進歩で他の媒体がデジタル化するときに、テレビだけアナログでいることはできない。本来デジタルというのは手段であって、目的ではない。
  放送ではデジタルを使って何をするのかというのが出てきていません。画面がきれい。電子番組表が出せる。天気予報が常時出ている。それぐらいしかメリットがない。
  12月からNHKが見逃した番組を配信するサービスを始めます。これなどはデジタルならではといえますが。
 
―放送が担うジャーナリズムにも影響が出ますね。 

 デジタル技術では捏造がいくらもできます。
  以前、林真須美容疑者が某メーカーのトレーナーをよく着ていて、その某メーカーがスポンサーだったので、トレーナーを無地にしようか、という話があった。半ば冗談ですが、デジタルならいくらでも可能です。
 
―野球場の広告をはめ込むという話もありましたっけ。

  バーチャルボードですね。今はやめていますが、そういうことがデジタルでは簡単にできる。ドラマでは予算がなくてエキストラが10人しかいないとき、デジタル技術で100人にすることができます。それをジャーナリズムの世界でやったらどうなるのか。
 
―課題ばかりですね。

  デジタル化を計画したときには、ここまで格差社会になり、地方が疲弊するとは考えていませんでした。その上に今の経済混乱です。11年の地上波デジタルへの完全移行を見直さないと、大混乱すると思います。

聞き手=伊東良平・保坂義久 
砂川浩慶(すながわ ひろよし)立教大学准教授・プロフィール 
 1986年、日本民間放送連盟〔民放連〕入社。 著作権、デジタル放送などを担当。 2006年 立教大学社会学部メディア社会学科准教授 著作 『地上デジタル放送』

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年11月号より)

 

 

 
 

大野晃のスポーツコラム

企業依存から脱却せよ

 
 


 国際金融危機で12年ロンドン五輪が資金不足に悩んでいるという。英国サッカークラブや米大リーグなどの経営にも暗い影が落ちている。

  16年東京五輪招致委員会は「もうかる五輪」を訴え始めた。企業スポンサー集めがむずかしくなったからだ。女子サッカー1部リーグのTASAKI(田崎真珠)が休部を決めた。休部や解散を決めていた都市対抗野球優勝3回の三菱ふそう川崎や66年の歴史を誇るデュプロが姿を消した。1995年から顕著になった企業スポーツ部の休廃部は10年を経て下火になってきたかに見えたが、再び火勢を強めそうな雲行きである。競技イベントや個人競技者への企業支援も弱まりそうだ。ほぼ全面的に企業に頼る日本のトップスポーツが、長引く不況で新たな危機を迎えている。 

 文科省はトップスポーツの振興・支援を圧倒的に企業群に依存しながらスポーツ部の休廃部が続出する中で何ら対策を講じてこなかった。企業の社会的責任としてのスポーツ支援を訴えながら具体的な働きかけは皆無だった。スポーツ振興基本計画で「メダル倍増」のはっぱをかけながら沈黙を決めこんでいる。

  マスメディアもまた感傷的に企業スポーツ部の衰退を嘆きはするが、真剣に対策を検討する姿勢を欠いていた。抽象的にクラブ化を呼びかけるものの、その現状や山積する社会的課題を提示することはなかった。

  日本オリンピック委員会はじめ競技団体は、こぞって企業におんぶにだっこで、競技者の生活基盤に目を向けようとはせず、イベント興行にまい進するばかりだった。そのバブル的手法が完全破たんするピンチにある。  企業の社会的責任やマスメディアの関わりにメスを入れて、国が責任を持ったスポーツ振興策を確立しなければトップ競技者の未来は見えない。スポーツの商業主義利用を牽引したマスメディアの責任が問われる。(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年10月25日号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その4

「アートができる事」を見事に「してみせた」イスワント・ハルトノ

畑 泰彦

 
 


 9月13日、丸木位里・丸木 俊夫妻の「原爆の図」で知られている丸木美術館(埼玉県東松山市)で開催されている「今日の反核反戦展2008」という展覧会のオープニングに出席してきた。
 出品している日本人の多くの作家の中に外国人の招待作家がいる。その一人、インドネシアのイスワント・ハルトノの作品を観るためだった。彼とは去年の12月に銀座のギャラリイKでの「靖国」をテーマにした彼の個展で知り合っていた。作品に興味を抱いていた。
 1972年生まれの若い彼が、靖国というテーマを取り上げるようになったきっかけは、日本人の同世代のアーチストたちに「靖国についてどう思う?」と問いかけたときに、「それは微妙な問題で簡単には答えられない」という答えしか返ってこなかったからだという。そのほかの人からは、返事さえもらえなかったのだそうだ。

 丸木美術館の2階にある彼の作品の展示室に入る。
 事前の想像とはまったく違っていた。ギョッとするほどリアルな二つの彫像が立っている。「二人」の間には、いま落ちて来たと思われる、原子爆弾がある。歴史教科書に一度でも目を通したことのある者であれば、誰でもこの「二人」が誰であるかはすぐに解る。彫像と出会うことで、私の脳裏には、マッカーサーと天皇の有名な会見写真が浮かんでいる。このような彫像がよく日本に入管できたものだ――と、驚かされるほどだ。

 まずは、そう考えている自分に気づかされる。戦前でもないのに、私の中でも自主規制が働いているのだ。そう感じていることに気づかされて驚いている自分がいる。立体作品でしかもリアル。53年前のその現場に立ち会っているような錯覚に陥りそうになる。だが驚きはそこでは終わるわけではない。発見もそこにとどまらない。
 だが、さらによく見る。なんと二人の顔はマッカーサーと天皇ではない。「両人」とも、イスワント・ハルトノの顔をしているのである。
 イスワントの中にあるマッカーサーであり、イスワントの中にある天皇なのだ。他者の中にあるマッカーサー、他者の中にある天皇―。歴史とは何なのか、記憶とは何なのか―。

 作品からどっとユーモアの波が私に向かって押し寄せてくる。圧倒的な存在感だ。
 マッカーサー(イスワント)と原爆と天皇(イスワント)の周りの四方に、大きく引きのばされた写真が貼られている。それらはアメリカの写真誌「ライフ」の太平洋戦争特集号の中の記録写真だ。戦争に対して無邪気とも思える日本人たちの姿である。
 「劇の稽古で銃の構えを軍人に教わっているクラブの日本人踊り子さんたち」―。その写真の中に、そっとイスワントがまぎれ込んでいる。
 「新橋の芸者さんたちが、自分たちの組合で軍に寄付したという飛行機の前で記念写真を撮っている」―。その写真の中に、イスワントが微笑んで立っていたりする。ああ、これはアートなのだ。歴史を題材にしながら、その過去の中に、現在の自分を入れ込んでしまう力をもつアートなのだ。

 それは微笑んで立ってみせているイスワントだけでなく、作品を観る者もそこに置いてしまう。
 歴史とは? 過去とは? 

 イスワントは、自分の属する社会の歴史、過去の記憶が、自分を作り上げている重要な要素であると語る。そしてイスワントの作品は、観る者(=私)に対して、「アートができること」を見事に「してみせた」わけである。以下に、オープニングの時のイスワント・ハルトノの挨拶を採録しておくことにする。

<イスワント ハルトノ Iswanto Hartono   VOID: 戦争のむなしさ>

 第二次世界大戦というテーマは未だ日本人の心の中に身近にあります。それは東アジアや東南アジアの人々にとっても同じです。戦争の終わりは時代の終わりであり、新しい時代の始まりでもありました。第二次世界大戦は個人的にも集団的にも処理しがたいほどの損害とトラウマを生み出しました。そのために、たくさんの事柄がやむを得ず強制的に忘れ去られました。
 たくさんの認識や考えや理解力までもが反対の声をよそに変えられることになりました。第二次世界大戦の歴史はまだ終わっていません。それゆえに独立問題がまだ猛烈に議論されています。例としてインドネシアやポーランド、イラクへの侵略、日本・中国・韓国・東南アジアを巻き込んだ過去の大アジア帝国、そしてアメリカ合衆国・イギリス・オーストラリアを含む同盟国を思い出していただきたい。
 私が子供の頃、25年前のことですが、父はオランダ植民地時代の暮らしと太平洋戦争中の日本占領下にあったインドネシアでの暮らしをよく語ってくれたものです。それはその当時、戦争というものを子供ながらに想像しようとした私の中に矛盾のような、あいまいさという感情をもたらしました。
 アーティストとして取り組む今も、この感情は私の中に残っています。歴史の形とは何か、そして「戦争の記憶」とは何か。それは男性的なものなのか女性的なものなのか。笑いであるのか涙であるのか。黒か白か、勝利か敗北か、正しいか否か、英雄か犯罪者か、死を意味するのか生を意味するのか。勝利と栄光か絶望と敗北か、パラダイスなのか地獄なのか。
 広島、長崎での原爆投下からベトナム戦争、南京の略奪、ボスニアとルワンダの大量虐殺、1965年に起ったインドネシアでの大虐殺、そしてアウシュビッツ収容所までを考えてください。どの時代にも人類の歴史を形づけてきたものは戦争というものだったのでしょうか。私が思うに人類史上最も犯罪的な行為は戦争であります。なぜかといえば、それは生きることの自由という最も根本的な「人間であることの意味」を無視した行いだからです。
 この世界のすべての生き物には生きる価値があります。事実、戦争の記憶は「打ち砕かれた痛みや涙」であり、そのような戦争がどのようにして私たちの歴史を形作ることができたのかを理解することは不可能なことです。戦争は人間であることの感覚を惑わし、国民を引き裂き、人類愛という感覚を消し去り、そして歴史を操ってきました。そして今や誇りと名誉の政治に変わっていきました。矛盾を感じるばかりです。
 ここ丸木美術館での展覧会のためのVOIDというプロジェクトは、太平洋戦争と靖国神社から集めた記憶をテーマにした作品のシリーズで、2007年の12月下旬に東京のギャラリイKで行った個展MELLOWというプロジェクトの延長です。第二次世界大戦中、インドネシアを含むアジア諸国で起こった太平洋戦争での出来事と記憶にいたるアジア地域の政治問題の中でも靖国問題は最も重要な問題の一つです。
 私は2006年の初めから今まで継続的にこの問題に取り組んできました。私にとって歴史が何を描いてきたか、いかにして歴史というものが「現代社会の記憶」を形作ってきたのかを追い求めることは非常に根気のいることでした。正しいかそうでないか、真実か誤りかを述べるにあたって、現代社会や個人の文化と社会政治的な視野によってそれぞれに解釈されるべき独自の根拠が歴史や出来事そして記憶にはあると思います。
 歴史という時間の中で「過ぎ去っていく瞬間」こそが私の関心をそそるのです。そしてアートによってその時間の中の矛盾が明らかにされていくと信じています。
 政治的、社会的問題は、私たちの日常の一部です。ですからその政治的、社会的問題を表現することが大きな影響を持つのです。それは現代における私たちのグローバルな社会の文化の謎解きなのです。靖国問題に取り組もうと決心し、日本で作品を紹介した際に私自身の社会の歴史に気付き、そしてそれと常に結びついてきました。
 その歴史とは、大アジア帝国の一つとしての1942年から1945年にかけて行われた日本におけるインドネシア占領であります。戦争の指導者たちは皆、戦争することについてそれぞれ自分流の道理を持っています。
 ですから私たちは、戦争とその指導者たちの残骸を放棄するために、今正式にここに集っているのです。丸木俊さんと位里さんが「私たちは皆、地獄にいる」と言ったように戦争することの無意味さを感じるために集うのです。
 私たちは皆、全世界が「反核、反戦」の声をあげることを待っています。

KILL ME 殺してください 
FUCK ME 犯してください 
THIS WAY このようにして 
HELL 地獄が 
THE END 終わる 

※ 原爆の図丸木美術館企画「今日の反核反戦展2008」 2008年9月13日〜10月25日(土)
〒355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401 TEL 0493-22-3266
メール marukimsn@aya.or.jp
 

 

 

 
 

「ガンバレニッポンにならないように」 五輪報道、現場の声

スポーツ9条の会が報告会

 
 


 憲法9条を守ろうと、スポーツ愛好者でつくる「スポーツ9条の会」が12日、東京都内で「北京オリンピック報告&討論会」を開きました。日本ジャーナリスト会議と日本スポーツジャーナリズム研究会との共同で開いたもので約50人が参加し、五輪報道などについて意見を交わしました。
  五輪担当デスクだった毎日新聞運動部の野村隆宏編集委員は、陸上男子短距離を制したウサイン・ボルト選手ら海外のトップ選手の活躍などを1面に出し、「ガンバレニッポンにならないよう気を付けた」と発言しました。また、連日朝夕刊とも五輪ニュース以外に読み物や解説も1面に載せる紙面づくりを「スポーツのことを分かってもらおうと頑張ったが、嵐のような状態でそういう方向が出せたのか分からない」と語りました。
 「しんぶん赤旗」スポーツ部の和泉民郎記者は、競泳の北島康介選手が優勝したときライバルのブレンダン・ハンセン選手が真っ先に近寄って祝福した記事を大きく扱った紙面を掲げ、「スポーツを通じて相互理解を深め、平和な社会を創造していくオリンピックの精神が現れた場面。いろんな競技でこうした光景があり、中身の濃い大会だった」と報告しました。
  会場からは「世界の力を伝えず日本は強いというイメージをつくる報道に作為的なものを感じる」「メディアは選手の本音を伝えているのか疑問に思った」などの意見が出されました。  青山俊明(赤旗スポーツ部)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年9月号より)

 

 

 
 

大野晃のスポーツコラム

総括なき北京五輪報道

 
 


 北京五輪が終わったが日本のスポーツマスメディアが恒例としていた五輪全体の総括が姿を消した。総括と銘打った記事は一部に限られ、テレビも新聞も再録再掲の総集編か、競技別のまとめを報じるにすぎず、メダルを逃した代表への非難まで飛び出した。
  マスメディアとしての批評性の完全喪失と言うほかない。そして、「開かれた大国になれるか」と五輪報道に名を借りた反中国キャンペーンを締めくくった。
  アジア勢躍進の原因は? ジャマイカ旋風の意味は? 陸上王国ケニアやエチオピアの秘密は? なぜドーピングは消えないのか? 米国テレビによる競技時間変更はどう影響したか? 日本選手団の獲得メダル半減の背景は?  これらが断片的にしか伝わらず、日本国民は無知におとしめられた。  世界も、五輪も、日本スポーツも、「その現状を知らしむべからず」とマスメディアが支配権力化したことを宣言する北京五輪報道だった。自由で自主的なスポーツの世界でも、日本国憲法を否定する、知る権利の無視がマスメディアによって先導されている。
  それでも日本国民の多くが、おぼろげながら感じとったことはある。  世界トップスポーツが米国一極集中から限りなく多極化へ進んでいること。世界はスポーツによる連帯を強く求めていること。世界から多くの学ぶべきことがあること。日本のトップスポーツがほとんど競技者の労苦と家族の支えだけで成り立っていること。しかも競技間格差がはなはだしいこと。それを国や大企業は放置していること。
  そこで急ぎJCJが総括討論会を開催することになった。国民への義務を果たすためである。  1964年東京五輪で世界を開放的に見た日本国民は、40年以上を経て、偏狭な「がんばれニッポン」意識に閉じ込められる危機にある。(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年9月号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その3―
アネット・メサジェ/「不気味なゲーム」

大川 祐

 
 


 いつものようにウィークリーぴあのアート欄をパラパラめくっているとアネット・メサジェの名前が飛び込んできた。彼女の作品は写真を通してだったが気になっていた作家のひとりだった。早速六本木にある森美術館へと足を運んだ。
 同じ料金で展望台のチケットも付いていたが彼女の作品に集中したかったので行かなかった。どうやって美術と展望を両方見ろというのだ。

 彼女の身の回りへの感覚が作品を成立させている。実際の作品を見たことのなかった私は、そのことを実作品を見ることでまざまざと感じた。彼女の作品にある現実と虚構が入り混じった感覚は私にぴたっと来たらしく、私の感覚がぴしぴしと音を立てた。

 作品のスタイルとしてはインスタレーション(オブジェを空間に設置する形式)になる。
 そして彼女の作品は絵画や彫刻といった美術的なものよりも、私たちの生活と地続きにあるようなイメージや素材、行為だったりする。問題の本質は美術の空間にあるのではなく、我々の生きている人生の中にこそ存在しているということを示している。それでいて、日常をそのまま感じるのではなく、日常の裏にある矛盾にユーモアを交えて我々に迫ってくるのだ。

 アネット・メサジェは1943年、北フランスに生まれた。1967年に、ジャン・デュビュッフェが集めたアウトサイダーアート(美術の専門教育を受けていない人々の作品)のコレクションの展覧会をパリ装飾美術館で見たメサジェは、そこに立ち尽くすような衝撃を受けたという。そこに出品されていたジャンヌ・トリピエの刺繍作品の強迫的な豊かさに触発され、手仕事から出発した造形に関心を深めていく。また他のアウトサイダーアートの作品にも影響を受けているという。

 彼女の初期の作品は、自分の最良のサインを探す仕事や友達に沢山の似顔絵を描いてもらう作品や、男性に成りすましたり、他の職業を演じてみたりした作品など自己を相対化しながらも個人的な世界観で始まっている。
 それが徐々に社会で共有できるテーマに移行していくのだが、最新作の大掛かりな作品までメサジェを特徴付けているものは、彼女の身体感覚であり、近年作り出される巨大なインスタレーションであっても、手から作り出される感覚は作品を覆っており、それが個人の身体感覚と社会感覚を繋ぎ、より複雑な表現になっている。

 身体をモチーフにした作品として、会場の中ほどで遭遇した「ドレスの物語」(1990年)では、棺を模したガラスケースに入れられた用済みになってしまった誰かのドレスが色々な言葉とともに収められている。
 そこでは過去にドレスの内側にあった肉体を想像させ、そのドレスとともに言葉が一緒になっている。それらの言葉は「イノセンス」や「プロミス」であったりする。作品を見る者はそのドレスの思い出よりも、人間が成長するとともに失っていく肉体の小さな死の物語をそこに見るだろう。そこに彼女の視点があるように思われる。

 メサジェは1988年ごろからぬいぐるみを作品に使うようになる。
 それらのぬいぐるみは解体されバラバラにされたり、中の綿が取り出され外側の表皮だけにされ、吊るされたり床にぺしゃんこになって置かれたりしている。
 それらは蚤の市などで買ってきたものや、メサジェ自身が製作した動物や人間を模したものがある。私も子供のころ祖母に作ってもらったぬいぐるみが大好きで、ぬいぐるみに生命を与えていた。

 私は大人になりぬいぐるみで遊ぶことはなくなったが、ぬいぐるみが持つ擬似生命性なるものが、逆にメサジェの作品のように人間が愛着を持ったり生命を与えたりイメージをしたものを無残な姿で展示されているのをみると、そこに死を感じたり人間の持つ残酷さ、非情さを見せつけられるような気がする。

 メサジェは手仕事からアートを始めたが、上述したように工芸的な物を見せるのではなく、切り刻んだり、縫ったり、剥いだり、吊るしたり、壁にぶら下げたりして、サディステックな行為に満ちている。もちろん作品がそれらの行為だけで表現されていたら、見ている方はうんざりしてしまうだろう。
 しかし彼女は古びたぬいぐるみや糸、編み物、画材も色鉛筆やクレヨンなどを使ってユーモラスだったり、かわいらしかったりする身近なイメージを作ることによって、そうしたサディステックな行為を相殺している。すると見ている方はその多義的な世界に引きずり込まれて、普段使っている二分法的な認識が壊れ、色んな気分が一緒くたになってしまうのである。

 また「私の願い」(1989年)という作品で彼女は、男女の身体のクローズアップの写真(多分彼女自身も含まれている)を円形に散りばめ、壁から吊るしている。これなども自己と他者、男と女が混ぜ合わされ、また部分的に見ると卑猥な表現にもなっているため感覚が狂ってくる。自分の体が相対化され宙に舞うようだ。
 そう、メサジェはアートで真剣に遊んでいるのだ。
 メサジェは語る。「アートは答えるのではなく問いかけることだ」と―。我々はメサジェのちょっと不気味なゲームに参加するのである。

 メサジェの作品は体感型の作品ではないが、見ている人が彼女の作り出すオブジェを目の当たりにし、その不気味さに動揺し、感覚が騒ぎ、何か怖いものを見ているのだけれど思わず見入ってしまう何かがある。
 ホラー映画でもそうだけれども、それが空想だとわかっているから安心して見られるのだが、そこに仕掛けがしてあって、例えば「彼らと私たち、私たちと彼ら」(2000年)という作品では天井から吊るされた小さな台に頭が動物のぬいぐるみに挿げ替えられた動物の剥製が沢山乗っかっている。頭の部分はぬいぐるみであり動物であるから人間が愛玩するイメージとしてのものだが、首から下は本物の動物を人間の手によって剥製化したものである。

 それらは動物がぬいぐるみを被っているように見える。この奇妙な接合は色んな空想を呼び覚ます。自然と人間、動物と人間の関係、人間とは何か、動物とは何かなど、その不気味さの裏側に見えてくる問い掛けに我々ははまってしまう。

 またメサジェは近年の巨大なインスタレーションにモーターなどを使って動きのある作品を作り始めるが「吊るされた者たちのバラード」(2002年)では、傷だらけの人間のぬいぐるみ、ややわらかいぬいぐるみの飛行機や臓物を模したぬいぐるみなどが、食肉の工場のように天井にあるレールに沿って吊るされ永遠に動いている。これを見た時すぐさま食肉工場を連想したが、吊るされていることからくる残酷さと吊るされているものが動くことによって、現代の経済性や機械的な感覚などがぬいぐるみ(愛玩的)との対比の中で浮かび上がり、その無機質なモーターの音とともに奇妙な空間を作り出していた。

 私は作品を見ながら違う種類の様々な感情がめぐってきた。
 ここまで見てきたようにメサジェの作品は、ゲーム性に満ちている。人間があたかも残酷なゲームの中にいるような感覚に襲われる。私たちは普段それを見ないように過ごそうとしているのか。ゲームという虚構が織り成す綾が、現実と混ざり合い、我々という存在をあらしめているということだろう。
 メサジェは決して教義的に作品を作らない。人間の愚かさだとか善さへと導くのではなく、我々がそのまま直面している真実に向き合わそうとしているのである。ユーモアを交えて。

アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち 森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/annette/index.html
撮影:渡邉修 写真提供:森美術館
アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち 2008年8月9日(土)〜2008年11月3日(月・祝)

 

 

 
 

「報道と人権」調整の議論を
 
高額訴訟めぐる集会で田島教授/裁判所は権力擁護の役割

 
 


 7月23日、JCJ出版部会と出版労連の共催で、「表現の自由」と高額訴訟―フリージャーナリストへの「口封じ」攻撃―と題した集会が岩波セミナールームで開かれ、70人が参加した。
  田島泰彦上智大教授が「高額訴訟の特徴と問題点」を話した。以下はその概要。

  今の裁判所は人権を規制したり抑圧したりする側に、政府をはじめとする権力に追随してそれを黙認、是認しそれを擁護する、そういう役割が非常に支配的な形になってきている。最高裁の3月の住基ネットの問題についての合憲判決や7月のNHK番組改変事件での判決はその例。しかもそれを新聞社は批判もなく、認めてしまった。裁判員制度も取材や報道の自由について重大な規制を設けようとする法律なのだが……。
  高額判決は明確な意図を持って出されてきた。自民党の「報道と人権等のあり方に関する検討会」の報告書が99年の夏に出され、公明党や司法関係者がこれを推進し、01年春ぐらいから一気に500万円レベルになってきている。
  高額化推進者はアメリカを例にしているけれど、それは非常に恣意的で一面的な理解。アメリカは事実、額が高いが、表現の自由の範囲がアメリカと日本では天と地の差がある。アメリカではメディアが嘘を承知で、あるいは、ろくに調べもせずに書いていることを公人、訴える側が証明できないと、裁判にならない。 
 日本ではまったく違い、公共の利益にかなっているか、公益目的があるか、真実かあるいは真実と考えるもっともな理由があるかということを、メディアあるいは表現者、訴えられた側が立証しないと訴訟に勝てない。さらにアメリカでは懲罰的な損害賠償という考えでの高額化があり、それを見ていない。
  また高額化の議論で欠けているのは、表現の自由と市民の人権の調整という大事な問題を議論してないことだ。
  スウェーデンの報道評議会の努力や、日本でもNHKと民放連の「放送と人権等権利に関する委員会」(BRC)や毎日新聞の「開かれた新聞」委員会を含め新聞の第三者機関が作られている。この報道と人権の仕組みをどう作っていくのかの議論が重要だ。
  いまのメディアはかなり駄目になってきているが、それを支えているジャーナリスト個人が訴えられる事例が増えている。個人に過重な訴訟費用、弁護士費用の負担、これは表現の自由そのものの問題だ。 
◇  この後、続いて斎藤貴男氏、黒薮哲哉氏、烏賀陽弘道氏が直面している裁判闘争の現状と課題について述べた。

斎藤貴男氏‥「週刊現代」に書いた記事を訴えられた。筆者と版元1億円ずつの請求。「731部隊と御手洗冨士夫会長」というタイトルが問題とされた。キヤノンの創業者とされる御手洗毅氏(産婦人科医だった)の指導教官に731部隊関係者がいたという事実関係の争いはない。
黒薮哲哉氏‥「押し紙」を減らすよう頼んだ販売店から折り込みチラシを持ち去った行為を「窃盗」と書いたことを名誉毀損、ホームページへの文書の掲載を著作権法違反で読売新聞法務室長に告訴された。「催告書」のような文書は、思想や感情を創造的に表現した著作物にはあたらない。
烏賀陽弘道氏‥雑誌編集部から求められたコメントについて、「オリコン」から5千万円の訴訟を起こされ、一審で100万円の敗訴判決が出された。インタビュー取材を受けた立場なのに訴えられた点も重大だ。 

 (出版部会 大場幸夫)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年8月号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
 
その2―マルレーネ・デュマス

中津川浩章

 
 


 昨年(07年)、木場にある現代美術館へマルレーネ・デュマスの展覧会「ブロークン・ホワイト」を見てきた。
 いつもここに来て思うのは、せっかくの現代美術館なのに駅から遠いし、不便な場所にあるなあ〜ということ、これではあまり人はいかないよ。それと、まわりの環境が全然現代を感じさせない矛盾―。

 これだったら石原都知事のアート行政のひとつ「東京ワンダーサイト」のコンセプトである都内の利便性が高いビルなどにお金をかけず、内装を変えるだけでギャラリーを作り、展覧会を企画していく方向性のほうが現実的だよな、と思う。ただ、その後の運営は四男の疑惑もあり最悪ですが。

 そんなことを考えつつデュマスの展覧会場に足を踏み入れた。――そこにはそんな現実的な問題を一瞬のうちに忘れさせてくれるパワーがみなぎっていた。
 マルレーネ・デュマスは1953年南アフリカのケープタウン生まれの女性画家、現在はアムステルダムに住んで制作とアート教育に携わっている。
 展覧会場に入るとそこには、古典的、伝統的題材である人物像、女性ヌード、男性ヌード、人の顔など一瞬見慣れた光景があるが、なにか違う。なんだかザワザワと胸騒ぎがしてくるのだ。それは現代のリアルなロックなどを聴くと理屈抜きに自分の細胞が沸き立つ感覚に似ている。

 デュマスの絵画はグラビアや様々なポートレイトなどの写真をモティーフに描いているものが多い、そのため、どこか既視観があるのだが、何かちょっと違う感じ、なんだかに向こう側に突き抜けていくものが感じられるのだ。
 その「ちょっと違う感じ」とは何かということを考えた。
 ロックミュージックが電気を通し音を増幅させディフォルメする事によってはじめて音楽に人工的な歪みと、人工的なものが持つリアリティ、すなわち現代性を獲得し成立したことと、デュマスの方法がとても近い気がする。従来の絵画はモデル(モティーフ)を媒体に表現を成立させてきた。いいかえればモティーフと画家の自然な関係性によって再現、描写、表現が問題にされ作品が生まれた。それは作品が持つ意味や価値が先験的に社会とつながっていたからこそ成立できた。

 しかし、映像などのテクノロジーの発達、第2次世界大戦による様々な価値観の喪失により絵画はその自明性を失った。簡単にいうと絵画は写真の出現により再現性という意味と価値を失い、その絵画が属するアートはアートを支えてきた共同性から生まれる共通の理念、心性やコスモロジーを失った。いわば絵画は2重に失われたメディアだということになる。それは現代社会がある意味で歴史を失い、個人の内面をも失ったということと重なっている。

 しかしデュマスに代表される現代アーティストはその自然な関係が失われた場所から、もう一度社会とアートの関係を構築しようとしている。
 その問題の出発点においてデュマスの場合、南アフリカ出身ということと無関係ではないだろう。たとえばアパルトヘイト、デュマスは個人的倫理を問いかけたり、告発したりというより、社会の制度の問題、そしてその制度をつくりだした文化の成立、つまり白人の目線自体を問題として提出する。そんな作品が「ブラックドローイング」。

 この作品は20世紀初頭以降のアフリカの様子を伝える絵はがきの写真集をベースに描かれている。デュマスは語る*1
「これらの写真から、ヨーロッパの植民地主義者たちが、アフリカをどうみたかがわかります」
「わたしも街を歩いている黒人を描くことをしませんでした。黒人の写真をもとに、絵を描いたのです。このふたつには大きな違いがあるし、それを区別することも重要です。アーティストとして、わたしはイメージに興味があります。わたしの試みは表現、借用、そしてメディアの過去と現在を問うことでしたから、・・・・」
  「ブラックドローイング」だけでなくデュマスの作品は一般的な写真というメディアがもっている役割と特性を意識化し、より顕在化し暴きだしている。つまり大衆の様々な欲望の反映、性的な、隠蔽されている差別意識の、あるいは優越感の、残酷さへの、暴力への欲望。それらは巧みにあらゆるメディアに隠され流通している。大衆の欲望を反映している広告写真などはその分かりやすいサンプルだろう。

 その舌ざわりのよさそうなキャッチコピーがついている広告写真がそのコピーの内容と正反対のメッセージを含んでいることはよくあることだ。
 人間は差別が好きだ、残酷さが好きだ、暴力が好きだ、写真が持つそんな隠されたメッセージをデュマスは描くことを通じてはっきり目に見え感じられるものとする。だから、会場に入った瞬間ザワザワ感覚が動き出したんだ。それが「ちょっと違うぞ」と感じた大きな理由だったのだと思う。
 勿論、そういった写真を作品の媒体としたアーティストは多いが、写真・映像などのメディアが持っている隠された欲望をここまで暴き出すことはない。それはやはりデュマスの絵画そのものが持っている力、表現力があるからなのだ。

 元の写真をなぞったかのようなディフォルメと言えないほど慎ましやかな変形、その小さい変形が微妙さ差異と違和感を見る側に与える。水彩画とインクのドローイングは筆のタッチも感覚的でアバウトに動き拡がりとエロティシズムを感じるほどだ。
 初期の油彩画は、そのくねるようなタッチに表現された色彩は、F・ベーコンを思わせるような激しい色使いで、顔を描いていながら内臓を連想させられる感覚で、絵具の塗りかたにメリハリがあって不気味でグロテスクなイメージを作り出している。

 つまり、誰が見ても記号的に、あるいはそのディフォルメが、わかりやすい形で表象されているわけではなく、非常に繊細で絵画的は表現によってその違和感や差異性が表象されているのだ。
 そういった意味においても、デュマスは写真、映像などの現代的メディアと絵画を関係させながらも、単に観念を扱うコンセプチュアルなアーティストではなく、しっかりしたコンセプトを持ち、そのコンセプトそのものを食い破るほどの個人的、内的な描くことへのプリミティブな衝動によって作品を作り出している現代における稀有な画家とよべるだろう。

 そしてそれらの表現は思考されたものというより、巫女のようなインスピレーションによって無意識の領域から生まれてきている気がする。だからこそ、様々なメディアの中で生きている私達にも感覚を通じてはっきりと、現代性とは何かを手渡してくれているのだ。

 *1:本文中のM・デュマスの発言はカタログ 「ブロークンホワイト」 /マルレーネ・デュマスへのインタビュー/聞き手=長谷川裕子氏、から。
関連書籍: 『マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト 』淡交社 (2007/04)

 

 

 
 

大野 晃の スポーツコラム

国策強化で介入狙う

 
 


 麻生元外相を会長に日本体育協会会長の森元首相らで構成する自民党のスポーツ立 国調査会が中間報告をまとめ、競技力の向上に国をあげて取り組むことを中心に、2 010年にスポーツ省の設置を目指すという。スポーツは「国の元気を生み出す源泉」で「国策として『スポーツ立国』ニッポンを実現する」のが目標らしい。
  大仰に「スポーツ立国」を叫び、国策の選手強化と国際競技会の招致で日本の国威 発揚を狙うスポーツの政治利用が見え見えの目論見だ。
  1987年4月に、中曽根首相の臨時教育審議会第三次答申で「競技スポーツの強 化は民族の活力を増大させる」としたアナクロニズムの民族主義的国策強化を思い出 した。同首相の私的諮問機関「スポーツの振興に関する懇談会」もスポーツ省の設置が目標だった。
  「スポーツ立国」報告は「民族の活力」が「国の元気」に変わっただけの焼き直しにすぎない。
  21年前の答申は、86年ソウル・アジア大会で日本が惨敗し、当時の塩川文相が日本体育協会幹部を呼びつけて叱りとばした直後で、88年ソウル五輪開幕1年前のこと。そしてソウル五輪の日本は成積不振に沈んだ。2006年ドーハ・アジア大会で日本の成績が落ち込み、今年の北京五輪での苦戦が予想される中での報告は、タイ ミングが極似している。韓国や中国での五輪が目前に迫り、日本の成績が両国を大き く下回りそうになると政権党は国策強化を名目にスポーツへの権力的介入を図ろうとするようだ。
  競技者への国による積極支援や縦割りのスポーツ振興行政の弊害をなくすためにスポーツ省の設置を求める声はかねてから広くスポーツ人たちに根強い。しかし何より も国民すべての権利としてスポーツが自由・自在に楽しめる環境条件を整備することが第一である。おざなりに「地域スポーツ環境の整備」を末尾に掲げる「スポーツ立 国」は「スポーツ暗国」と言うしかない。(スポーツジャーナリスト)

(JCJ機関紙「ジャーナリスト」2008年6月号より)

 

 

 
 

二十一世紀アート世界一周
その1−デミアン・ハースト
 

畑 泰彦

 
 


 現代美術について、日本のマスコミはあまり取り扱わない。ほとんど取り扱わないといってもよいくらいだ。ここではそれを、アート作家中津川浩章さん、大川 祐さん、美術評論家・古川美佳さんと私、畑泰彦とでリレーで紹介していくことにする。
 今、世界中の先端の若者達が日常、創ったり見たりしているものを中心に、世界で活躍している人の作品やそれに関連するモノや情報に、さまざまな角度から接近してみたいと思う。
 その動機は、このレポートを読み進んでいただくなかで、自然に感じ取っていただけるものと思う。写真等では、立体感や匂い、大きさなども伝えにくく、わかりにくいという制約があるがお許しいただき、なんとかチャレンジしてみることにしたい。
 初回のデミアン・ハーストの作品もほとんどの日本の人の目には触れていないものといえる(右に作品例:クリックで拡大)。

 作品に入る前に、まずアートの簡単な区分けをしておこう。いわゆる、(1)ピカソ、ゴッホ、セザンヌ、などカラー絵の具でキャンバスに描き塗ったものを絵画Painting。(2)ロダンの彫刻、ミロのビーナス、法隆寺の仏像などの立体物を彫刻Sculpture。(3)舞台装置のようで見ている人まで取り込んでしまう作品をインスタレーションInstallation。(4)楽器を使ったり 土方 巽の舞踏、小野洋子の叫びのような音声、その場限りで消え去ってしまう音と踊りとハプニング的情熱のものをパーフォーマンスPerformance。(5)アラーキのように普通の人には出会えないような(実は全部創っているのだが)シーンのPhoto、そしてビデオなどで創る映像世界。
 そしてこの(1)から(5)、またはそれを超えて、あらゆる新しいものを駆使して未来につなぐ新しい価値観を創造するのが、アートだ。アートは閉じない、終わらない。新しい世代へ新しい世代へと、永久につながるのだ。
 日本には院展(いわゆる東洋画なのだがなぜか特別なこともないのに日本画という。島国根性?)とか日展(十九世紀ヨーロッパの印象派からいまだに抜けだせない油絵の具の世界)とかの世界に住みつき、本来、「自由人」の象徴であるべき美の創造者たちが、階級的ヒエラルキーの世界に根をはってしまって、せっかく入ってきた印象派の流れも、その時代のままの真似で留まってしまった。 日本の「わびさび」の美を創った、千の利休が「心の美」をもってして、権力者に抵抗して自害をして以来、この国には美を愛する「自由人」を尊び、育てようという思想がきえてしまったのだろうか。
 利休のわび茶の精神は、名だけをつぐ後継者たちによって、日本的権力構造と日本的資本構築の構造を取り込んで上納式天皇制茶道に「変身」してしまった。
 個々人の「美的センスを持った自由人」を急いで育てるのはむずかしい。ひとが生まれたその瞬間からすてきな環境と教育の場が必要となるから。
 いま、欧米はもちろん中国、韓国、などアジア諸国もその根源的な教育に力を入れ出した。彼等が重点を置くのは、文字を教えるとか数学を教えるということだけではなく、その前に、子ども達に高度なセンス(情操)を身につけさせるということである。その子ども達の力が、近い未来を担う、国の豊かな資本になることがわかっているからである。

 話を最初に戻し、作品A(画像上)をみてもらおう。作家名はデミアン・ハースト(Damien Hirst;日本ではダミアン・ハーストとも)。
 1965年イギリス生まれの現代美術作家で、この作品の題名は「Mother and Child Divided」。
 真っぷたつに、カットされた親子の牛がホルマリンの液の中に浮いている。えっ、これがアート作品? そう。これが美術の世の中を騒がせたアート作品だ。かれの最近のテーマは、「Death」。この人の殺しあいに無感覚になってしまった現代社会に立ち向かうにはこうでないと。とばかりに、強烈にしかも静かに表現する。
 親子の牛を美しく(?)裂いてみせる。胃や腸、筋肉、背骨が見える。人間のそんな見本は見ることができないが、その作品からはちょっと想像することができる。親子という関係まであって、物悲しくもある。仕掛けが見えないように宙ずりにして浮かせてある。いろいろ想像したまえ。イマジン! 半分になった体の間を通る時の感覚は不思議なものだ。同じシリーズで鮫もある。
 彼は言う。
「これは科学的な動機でつくられている。動物が左右対称なもの? と疑問を持ったら、あなたはどうする? 半分にカットしたら、中はどうなっているか、同時に外側は、と見ることができる。これは美しい。ただ問題なのは死なされているということだ。これが人間ならって? 同じように、開かれて死んでいる人を見ることによって、場合によっては生きている人たちについて、もっと良く知ることができるよ。 …百年後には、人はもう肉食をしなくなっているかもしれない。野蛮だものね。牛は最も食用にされているからね。牛はDeathそのもの、歩く食物だよ」

 今この作品が六本木に来ている。再制作されたものだが、六本木ヒルズ53階森美術館…英国美術の現在史ターナー賞(イギリスが国をあげて若者を育てているイベント)の歩み展…で7月13日まで観られる。
 ちなみに、この作家を後ろから支えるコレクターは広告代理店の世界で1、2を争ったサーチ&サーチの創業者のサーチさんだ。ロンドンに行くことがあったら、サーチギャラリーがあるから、そこでデミアンの作品に出会うことができる。次にすぐ近くのテートモダンという現代美術館を見て、その夜はとなりにあるグローブ座のレストランで軽く食事をすませたあと再現された吹き抜けのグローブ座の舞台でのシェイクスピア劇で四百年前に戻るのも最高の贅沢か。
 タバコを使った作品Bもおもしろい。棚に見立てたケースの中に吸いがらを丁寧に大量にならべる。彼は言う。「Cigarettes are perfect until you light them.」―タバコは申し分ない。でもそれに火をつけるまでだけど。ヘロインは禁止されているけれどタバコの場合、法律には違反しないが限界がどこなのか難しい。タバコもヘロインも最後には死にいたる。「The absolute corruption of life which is death.」―(タバコを吸うことイコール)自分の生命の力にたいしての、許されざる堕落は、死とおなじだよ―。
 日本では金沢の二十一世紀美術館で彼の蝶々の作品の一つが見られる。塗られたばかりで乾き切らない美しい色のキャンバスに、南米の最高に美しい蝶々がみずから飛び込み(?)張り付いてできた美しい作品だ。見る者の触覚を揺り動かすかも。
 題名は「Do You know What I Like About You?」

(2008年5月/JCJ広告支部ニュースより転載、資料:『I WANT TO SPEND THE REST OF MY LIFE EVERYWHERE, WITH EVERYONE, ALWAYS, FOREVER, NOW』DAMIEN HIRSTなどより)
<関心のある人に参考になるサイトの例>
 http://www.artcyclopedia.com/artists/hirst_damien.html (artcyclopedia)
 http://www.artchive.com/artchive/H/hirst.html (artchive.com)
 http://www.gagosian.com/artists/damien-hirst (Gagosian Gallery)
 http://www.saatchi-gallery.co.uk/ (saatchi-gallery)
*05年以降のサーチ・ギャラリーの変化で、デミアン・ハーストらの代表作がアメリカなどへ流出しているとのレポートもある。

 

 

 
 

大野 晃のスポーツコラム

大震災と北京五輪

 
 


 1964年東京五輪開幕の4カ月前に新潟地震が襲った。新潟国体閉幕直後のことだった。死者は少なかったが、高校生だった筆者の目には、国体開催で新装されたばかりの幹線道路や橋、競技場、そして多くの建物が、無残に変貌した姿が焼きついている。
 それでも復興に動き出した街では五輪への期待が高まっていた。五輪がかけがえのないものに思えたからだろう。
 「こんな時に五輪でもあるまい」と言い出す人はほとんどいなかった。そして、世界の競技者たちが輝いて見えた開会式のテレビ映像にくぎ付けになった。40年以上も前の思い出である。
 中国から伝わる四川大震災の報道に心が痛む。将来が絶望的にすら思わせる。しかし、中国の人々は自らの手で復興に立ち上がるだろうと確信する。新潟でもそうだった。阪神大震災でも住民たちは負けてはいなかった。そして、かたわらにスポーツがあった。体を動かして元気づいた。
 大震災の悲惨さや救援態勢の弱さを批判する報道はこれでもかこれでもかと繰り返されるが、人間のたくましさ、力強さが伝わってこない。
 日本のマスメディアは民衆の生きる力を忘れてしまったのだろうか。
 五輪運動の原点は、苦境から立ち上がる人類の力強さを確信することにある。「戦争をやめて平和な世界へ心を一つにしよう」は空論ではない。極めて現実的な人類の意志なのだ。
 中国の人々が五輪運動の真の意義を感じ取る中で、北京五輪は開幕を迎えることになるだろう。その過程を丁寧に追う報道が期待される。それは人類の意志を思い起こすきっかけになるはずだ。
 大震災を乗り越えて開催される北京五輪は、参加するスポーツ人に、励まし合い、助け合う真の国際連帯を自覚させるだろう。マスメディアにとって五輪とは何かを問い直す契機にしなければなるまい。(スポーツジャーナリスト)

(2008年5月 JCJ機関紙「ジャーナリスト」より)

 

 

 
 

人と仕事 経済記者 山田厚史さん

 安倍元首相の事務所にテレビでの発言を訴えられた経済記者の山田厚史さん。「言いがかり」に類する訴訟は安倍サイドが取り下げて決着した。
 日本経済の変動を取材してきた山田さんの仕事を振り返り、これからのメディアと経済報道を考える。 

聞き手 保坂義久

 
 


事件に強い記者をと見こまれ日々の取材・執筆で経済を理解
ネットとの融合で転換期の新聞

 ――経済部記者は最初からの希望ですか。

 支局の頃、経済部は難しいことを言っているけど、財界の代弁者みたいに思っていました。経済部へ行けといわれたのは成田空港闘争の取材のさなか、前線本部にしていた旅館でのことです。「成田はやがて開港する。そうしたら経済部へ」と言う。聞くと「これからは企業合併や倒産など経済でも事件が多くなる。現場取材に強い経済記者が欲しい。朝日の経済部は買収や合併が明らかになってからの解説記事は確かなものを書く。しかし情報を取ってこられない」というのです。
 新聞記者で最初から経済に強い人は滅多にいません。支局では事件や県政を取材するけど、民間経済はあまり扱わない。
 でも経済部にいって最初に担当した兜クラブでは毎日、どこかの社の社長と会計担当者がきて決算報告する。それをメモするうちに「この業界は大変なのだ。この業界ではこの会社がトップなのだ」とわかってくる。記者クラブに身を置いているだけで日本経済の実態が空気のように入ってくるわけです。
 「わが社の経営戦略」という話題の企業のトップの話を聞き書きする欄を書く。各業界のレポートをまとめろと言われ、業界団体や野村総研、日興リサーチセンターなどへいって話を聞く。週末には取材して株価予測も書く。毎日、レポートを書いているわけだから、自然と日本経済がつかめてきます。
 兜町に1年いて大蔵省担当になりました。大蔵担当は4人いてキャップ一人と主税、主計、雑局担当。雑局担当は銀行局、証券局、国際金融局、理財局などを取材する。G7は国債金融局、国債は理財局で雑局担当が一番難しいけど一番若い記者がやらされます。
 わたしが大蔵省担当になった80年に国債の大量発行があり、国債管理政策や財政再建キャンペーンが始まった。大臣が竹下登、渡辺美智雄の時で、理財局は雑局担当だからいきなり国債問題を書かされた。

 ――政治部は扱わないのですか?

 政治部はもっぱら政局をやっている。大蔵省にも政治部記者がいますが、大蔵大臣になる大物政治家をフォローして政策は扱いません。
 当時のもう一つの課題は銀行法改正。金融の自由化や国際化が言われた。
 護送船団方式とよばれる銀行行政の時代は、預金金利を大蔵省が決めていた。貸出金利は銀行同士で決めたが、それも各銀行にMOF担当がいて大蔵省にお伺いを立てていた。調達コストと貸出金利を大蔵省が決め利ザヤ保障されているからボリュームの競争になる。
 今とは違って以前はお金が希少だったのです。不足しているお金をどこに配給するか決めるのが銀行の使命だった。
 しかし大量発行で「61国債」が暴落≠オ、国債は大蔵省が値決めできず、市場に委ねられるようになった。
 護送船団方式では利ザヤは一番効率の悪いところでもやっていけるように設定されるから効率のいいところは超過利潤になる。その儲けの分を海外進出して安く貸すから、海外から批判される。海外で日本の銀行の振る舞いが批判されて後のBIS規制につながっていく。

 ――大蔵主導のレジームがだんだん壊れていった…。

 その前にプラザ合意があり、「バブル」にいく。バブルを「あぶく銭経済」と呼んで、地上げや銀行の暴走のことも書きましたが主流にはなりませんでした。
 そのあと88年からロンドンに行った。経済担当記者はロンドンにしかいなくて、ヨーロッパ全部の経済問題をカバーします。わたしがヨーロッパにいっている時には二つのことが起こった。一つは92年末までにモノ・ヒト・カネの全てを市場統合しようという動きがあった。もう一つは東欧革命です。東欧担当特派員はウィーンに一人いるだけだからわたしが呼ばれる。
 東欧圏の崩壊を経済でみれば、ドルが流通する闇経済が表を飲み込んだといえる。共産党の人が最もルーブルを信用せず、闇市場にものを流す。ドルとマルクが社会主義陣営を壊したのです。その時に、戦争は爆弾でではなく通貨で戦うのだなとよくわかりました。
 今、円安でなければといわれる。でも通貨は強くなければダメです。日本では円高で企業の国際競争力が落ちるばかりといわれる。企業利益中心にマインドセットされているから、5年連続で企業が増収増益でも労働分配率は上がらず、景気もよくならない。

 ――帰国後は?

 経済部のデスクから編集委員になり、住専問題や金融破綻が起きてそれを書く。編集委員になって初めて論評が書ける。それまではリポーターで記者としては準備段階ですが、たいがいの人はやっとものが見えるようになると記者として終わりになる。わたしの場合はまた記者に戻ったわけです。最近は編集委員、論説委員という肩書きのないシニアスタッフも増えていいことだと思う。

 ――これからの経済記事はどうなると思いますか。

 経済記事は続けて読んでいないとわからない。様ざまなことを数ページに押し込むから、大事な話は書きこめるかもしれないけれど、ニュースバリューの小さい記事は短くなる。でもニュースは最初からニュースバリューが大きいわけではない。小さい扱いでは説明がないからわからない。だから経済のことは、「ニュースがわからん」のような大きな欄で書かないと読者には通じないでしょう。
 これから新聞とインターネットが融合して、紙の新聞はポータルサイトの機能を担うべきです。記事にマークをつけて端末で読み取り、更に詳しく読みたい内容、経緯や関係者のコメントなどはネットから見るようにする。ネットの記事はデーターベース化していけばいい。
 インターネットでは誰が書いたかわからない怪しげな情報が反乱している。ウィキペディアの私の項目では安倍事務所との係争で「山田が遺憾の意を表明して謝罪した」ように書かれています。
 そのなかで、新聞は情報の品質を保証していることで差別化していく。そのためにはデーターベースの構築が急がれると思います。
 メディアはこれから大変革の時代ですが、130年続いた紙の新聞のビジネスモデルはもう続かない。これまで新聞は記者クラブ、宅配制度、大輪転機に支えられてきた。官庁発表が主流で情報が少ない時代は配給を独占できたのです。それがもはや続かない。
 ただ情報社会の中でコンテンツを生産するライターやエディターの役割はますます大きくなるでしょうね。

プロフィール

やまだあつし
1948年生まれ。71年朝日新聞入社。青森支局、千葉支局を経て78年東京経済部。88年ロンドン特派員。93年経済部編集委員。96年からテレビ朝日コメンテーター。
2000年バンコク特派員。03年アエラ編集部。08年シニアライター。

(2008年5月JCJ機関紙「ジャーナリスト」より)