夏のジャーナリスト講座2022 終わる…テーマ持ち続けて問題解決できた事例も

「ジャーナリスト」2022年10月号 通巻775号

 JCJ夏のジャーナリスト講座は9月1日、朝日新聞福島総局の滝口信之記者=写真=を講師に迎え、「福島を取材する」の題でオンライン開催した。
 滝口記者は福島県出身で2014年に朝日新聞に入社。故郷で起きた原発事故に関する取材が将来の目標だった。大津、千葉、東京本社社会部と異動し、その間は警察取材に全力をあげた。「いつかは福島で取材したい。そのためには目の前の事件取材で力をつけ、認めてもらうことが第一」と考えた。
 一方で、関心あるテーマの「福島」「沖縄」について、警察を回りながら、機会を見つけて取材した。「原発事故からの避難者は各地どこにでもいる。その集まりなどに出かけ、記事にした」。千葉時代には沖縄のメディアで働く千葉県出身記者を訪ね歩いた。松戸市で育ち、琉球朝日放送で活躍したフリージャーナリスト、三上智恵さんに、インタビューもした。「やりたいテーマにこだわりを持ち続けることが大事」と語った。

最終講座は対談豊富な経験語る
 講座最終回の9月17日はフリージャーナリストの幸田泉さん(大阪)と宮崎園子さん(広島)の対談。二人とも元全国紙記者で、経験を積んだ立場から「報道の意味・役割」を考察してもらった。
 幸田さんは広島支局時代の話をした。取材後に、帰る車を運転しながら大粒の涙を流したという。被爆資料として知られる「滋君の弁当箱」のことだ。
1993年に米国スミソニアン博物館から弁当箱の貸与依頼が来ていた。広島の原爆資料館は反対があるからと貸与を拒否した。「なんで?」と思った幸田さんはだれが拒否しているのか、資料館に尋ねた。それは86歳になる滋君の母親だった。車で母親宅に向かった。
 爆心地近く、弁当箱は白骨化した滋君のおなかに抱え込まれていた。中身は黒焦げ。「最後に弁当も食べられんと殺された」と話す母親。「見世物にするのはやめて」と言った。こうした複雑な思いを持ちつつ、遺族は遺品を原爆資料館に寄せている。記事にすると、学校の教材に使いたい、俳句を詠んだなど大きな反響があった。
 「記者は問題提起はできても、問題解決はできないのでは?」という問いが受講生からあった。宮崎園子さんは朝日新聞記者時代に大阪で書いた記事を「小さな問題解決の例」として紹介した。
 2011年にテレビの地デジ化が実施された時だ。大阪・あいりん地区の公園にあった街頭テレビが見られなくなると心配された。ビール片手に阪神戦を見るのを楽しみにしている「おっちゃんたち」はどうなるのか。
 宮崎さんはテレビを管理する西成警察署などを取材し、困っていることを記事にした。すると警察署に現金6万円が届いた。他にも寄付が20件以上集まり、地デジ対応テレビを置くことができた。「問題提起が出発点となり、困りごとの解決につながる」と宮崎さんは話した。須貝道雄